夕日があんまきれえだとなんか世界が終るみてえな気がする、と言った時生のことを覚えている。 建物に遮られない屋上からの眺めは確かに見事で、俺もそこそこ綺麗なもんだと思ったのは確かだったけれど、その次の瞬間にはそのあんまり丸くて橙色の輝く固まりから連想した、でかくてかたい醤油せんべいが食べたいなあなんてことに思考を馳せていたものだから、ロマンチックともいえるだろう時生の言葉に、反応がちょっと遅れた。
「夜になるだけだろ、」
世界なんかそう簡単に終りゃしねえよ、終んのはその日っていうその1日だけだ。 当たり障りのないだろう返答をした俺に、それはそうなんだけどよー、なんて甘えたみたいに語尾を伸ばして時生は俺の肩を抱き、おおきく左右に揺らす。 火の付いていない煙草を唇に軽く挟み、フェンスに乗っけていた顎だけをそのままに、時生の成すがままに揺らされた身体は鉄錆だらけのフェンスとぶつかりがしゃがしゃと耳障りな音を立てる。 たまおー、とすぐ耳元から柔らかく降ってくる時生の声はいつも心地よくて、んー、とかおーとか返事にもならない返事を俺はいつもする。 その度に時生は聞いてんのかよ多摩雄、なんて笑う。 聞いてるっつーの、俺よりお前の話聞いてる奴なんていねえよ、言ってみたところで時生は嘘つけおまえこないだだって人の話聞かねーで塩と間違えて砂糖ゆでたまごにかけてたしその前だって烏龍茶と間違えて麺つゆ飲んで吹いてたじゃねーか、つーかベタすぎんだろ!マジでマンガみたいに吹きやがって!しかもどこに吹いたって俺のシャツにだよな?麺つゆの染みとか落ちにくいんだけど!なんて言葉が返される。
「同じシャツ山ほど持ってんだからいいじゃねーかケチケチすんな」
「山ほどはねーしほんの10枚ほどだしケチは多摩雄だよな?そうだよな?」
な、と時生は笑う。 俺は否定はしない。 時生、と呼びかけると、ん、と時生が答える。 時生、火ィつけて。 えー、自分でつけろよー、言いながら時生はもう自分のシャツの胸ポケットから銀色のジッポを取り出している。 チンと小気味良い金属音を立てて弾くように蓋を開けるとジッという音とすこし焦げ臭い匂いと一緒に、時生の左手の中の火が近付けられる。 その手に顔を寄せ、揺れる炎に煙草を押し当て火を移し、深く吸い込む。 肺を満たすニコチンの煙。 一拍おいて薄く開いた唇から細く吐き出す。 薄い紫煙はすぐに霧散して、目の前にはただ遮るもののないクリアな茜空が広がる。 俺の肩に回された時生の右腕は、時生のシャツと俺の学ランとその下のシャツ越しにまだ時生のすこし高めの体温と重みを伝えて、俺はただそれを受け止めていた。 いつのまにか時生の唇にも夕日と同じ橙色の炎が瞬く煙草が銜えられていて、それを落とさぬよう唇を動かさずに舌だけで出した不明瞭な発音で、きれえだよなあ、と時生は言った。

あの日の夕日は確かに美しかったけれど、俺にとってはそれもただありふれた日々の情景のひとつでしかなかった。 時生が俺の隣に居て、俺たちはアホの一つ覚えみたいに登校するたびに売られた喧嘩を律儀に買って、それから運動の後は腹が減るななんていいながら購買で買ったカレーパンと玉子サンドを頬張って、おまえマヨネーズついてんぞ、おまえこそ鼻水垂れてんぞ、垂れてねーよボケなんて笑い合って、いつの間にか筒本が混じって戸梶が増えて、そんな毎日が当たり前で、そんな日常が永遠に続くような気がしていた、なんていうのはちょっと嘘だ。 そんな感傷に浸るのは全てが手遅れになってしまった今だからで、あの頃俺はそんな世の中の無常についてなんて考えて見る暇も余裕もなかった。 ただ、ありふれた毎日があんなに大事だったと今になって知るなんて、まったく月並みで真実ありふれて馬鹿げたくそくだらねえ話だ。 なあ時生。 お前は俺よりいくらか賢いから、もしかしたら気付いてたんだろうか。 毎日が永遠に続くことなんかありゃあしねえって。 ちょっと考えりゃ当たり前のそんなことを、想像してみることすらしなかった俺の隣で、お前は一体何を考えてたんだろうか。 俺は、馬鹿だ。 俺は、無力だ。

薄暗い病室の中で俺は、足りねえ頭で考える。 脳裏に描く度に目の前が暗くなるのに、瞼の裏に焼き付いたその情景だけはあまりにも鮮明でスローモーションのように非現実的なのに間違いなく現実で、俺の目の前で時生の身に起こった出来事だ。 何度も何度も反芻するその度に目眩を起こしそうになる。 足下が崩れ落ちて真っ暗などこかに落ちていきそうになる。 それなのに俺の脳味噌はただ同じシーンばかりを再生し続けている。 まるでマゾヒストだなんて自嘲してみたところで、これっぽっちも面白くもない。 俺の手を擦り抜けて床に倒れ込んだ時生は、今は管でわけのわからない機械に繋がれてベッドの上に身じろぎせずに横たわり、規則的な電子音と暗いモニター画面の中の緑の波形だけがその静かな身体がまだ活動していることの証明をしている。 大丈夫、そんなのは嘘だ。 明日になれば目を覚ます。 目を覚まして俺と視線を合わせると、おう、なんて気まずそうに苦笑する。 んだよーだせえとこ見てんじゃねえよこっぱずかしいな、そう言う。 ごく近い未来の話だ。 そんなのは嘘だ。 時生の今はまだ暖かい体温を保ったこの身体が明日には冷たくなって、薄い瞼がもう開くことはなく、その黒い瞳が何も映さなくなる。 明日じゃなくとも、明後日でも、1週間後でも、1年後でも、そうではなくて今すぐにでも、そうやって形だけを残したまんま時生の中身はどこかに消えてしまう。 俺は何をしていたんだろう。 俺だけが知っていたのに。 あからさまな嘘に、騙されたふりをして。 時生がそう望むならと、何も知らないふりだけをして。 そうやって俺は何の手を打つこともできずに今お前のことを失いかけているんだ。 俺に何ができるっていうんだろう。 なんでお前じゃないと駄目なんだろう。 お前じゃなければよかった。 ぶっ倒れたのがお前じゃなければ、誰だってよかった。 俺だってよかった。 お前だけは駄目だ。 お前がいなくなるなんてそんなのは駄目だ。 俺は耐えられやしねえよ。

一緒に見た夕日を覚えている。 俺はあの時、時生がいつか言ったセンチメンタルな言葉を思い出し、もし時生が望むなら世界だって終らせてやりたいなんてそう思ってみたけれど、それを願ったのは時生じゃなくて俺のほうだ。 変わらない未来を夢見て空々しいほどの願望を口にしたけれど、ほんとうはあの時世界が終ればよかった。 今になってそう思う。 そうだったらよかった。


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