頭上を覆う杉の葉叢から、蝉の声と共に、天頂に座する太陽の放つ凶暴なほどの煌めきが、濾過されたように淡く薄く零れ落ちる。 顎の下を流れた汗を払い飛ばすように軽く頭を振ると、軽い目眩に襲われた。 石段を登る足下がわずかにふらついたのをしっかり見咎められたらしいアーニャに、大丈夫?とあの頃と変わらぬ平坦な口調とすこしばかり低くなった声で尋ねられ、平気さ、と返した。 変わらないつもりの自分の声にも等しく年月は積み重なっているはずだけれど、緩やかすぎる変化に自分で気付くことは出来ないものだ。 そしてある日突然、既に変化し硬化してしまった現実を突き付けられて、肯定するしかないその事実にはきっといつでも狼狽えさせられる。 変わらないものなんて何もないなんて、誰だって知ってるはずなのに。ねえ。

蝉時雨っていうんだ、と言ったのは彼だった。 初めてこの地で夏を迎えたあの年に、まるで木そのものが騒音を発しているようなその様子に驚いて、ここらの木って鳴くのかい、なんて問いかけたら、彼は丸い目を見開いて驚いた顔をしてみせて、それから納得したような顔で頷きながら歩道脇の街路樹に近寄ると、軽く跳ねて無造作にその幹に触れた。 ノイズのような音が一際大きくそれから不規則になり、ほら、という言葉と一緒に彼が見せてくれた彼の指に摘まれて、初めて見る昆虫が唸り声を立てていた。 蝉っていうんだ、と彼は言った。 ただ普段通りの仕草で、彼の身長よりすこしばかり高い位置にいたその虫を容易に捕って見せた彼に、そんな鈍い虫なのか、と手を伸ばすと茶色い翅を震わせてその虫は彼の拘束から逃れ、青一色の空に向かって飛び立ってしまった。 鈍くはないよ、でも昔はよく捕ったからね。 彼はそう言って昔話をするときはいつもそうだった、口角ばかり上がった寂しく見える笑顔で、それ以上の問い掛けを拒絶した。 蝉時雨っていうんだ。 蝉の鳴き声が、まるで雨みたいに降り注ぐから。 日本人て比喩が好きだよね。 ほんのひと刹那、気が緩んだらしい彼が不意に零したその単語に、そのとき気付かないふりをした。

蝉が喧しく鳴き続けている。 木漏れ日が揺らぐ長い石段を一歩ずつ登る。 左斜め後ろを歩くアーニャの気配。 あの頃と変わらない、ちいさくってやわらかそうな。 きっとアーニャは、身長ならば20センチは伸びたけど、なんて言うんだろうけれど、それでもアーニャはちいさくってやわらかそうなかわいいアーニャだ。 私達のアーニャ。 変わらぬ可憐なその姿。 ちいさなその身体で、隣に並んで。 それでも年月はかつて少女だった彼女の上にも、公平に降り積もる。

やがて古びた鳥居が見えてくる。

取り壊されても不思議じゃなかったんじゃないかな。 残して欲しがったから、勿論表立ってそんなことは言わないけど。 それって誰の話? ナナリー。

ナナリー殿下から殿下なんて敬称が消えたのはもうずっと前で、恐らくアーニャはその中でも割合早い段階で、ただのナナリーとそう呼んでください、アーニャ、そんな風に言われたんだと思う。 想像でしかないけれど、十中八九間違ってはいない。 ナナリー。 アーニャがかつての皇位継承者をそう呼ぶその響きは好きだと思った。 慈しみと親しみとそれからやっぱり敬愛のこもった、その優しい音の固まりを。 なのに出てきたその名前にすこしだけ落胆した。 そんな自分に、甘い感傷だと自嘲した、つもりだった。 それ以外の誰かなんて出てくるはずがないってそんな当然のこと。 知っていた、知っていたはずだった、知っていると思っていた。 そうじゃないかもしれないと、思うことだってあったけれど。 彼が望んだ結末を見届けることがせめてもの手向けだからとそう考えて、納得した筈だった。 世界の悪意を飲み込んで冷たい土の下に、あの、最初は耳慣れなかった、いつのまにか舌に馴染んでいたやわらかく響く名前を眠らせた彼が夢見た世界を。 彼は遠くへ行ってしまった。 彼自身の足で、無数の屍を踏みつけて、触れることの適わない、遥か遠くへ。

高台に建つその神社からは、きっと眼下に街を見下ろすことが出来るんだろう。 眉にせき止められずに滑り落ちた汗で視界が滲み、見上げた朱鳥居は輪郭をあやふやにする。 知らず吐き出したらしい長い息に、大丈夫?と同じ言葉が掛けられた。 平気だって、もしかして年寄り扱いでもするつもりか?たったみっつしか違わないっていうのに! 相変わらずの変化に乏しい表情で見上げるアーニャはそう、と言った。 先程とは違う、問い掛けの本当の意味には気付いていたけれど。 それと分かって知らぬ振りをしたそのことを、理解しないほどにアーニャだって鈍くはないのは百も承知しているけれど。 また黙って歩を進め始めたかすかな靴音に気付かれないように、そっと肺の中の空気を深く吐き出し、残りわずかになった石段を登り切る。 革靴の下、踏みしめられるごつごつした花崗岩は乾いていて、木漏れ日に結晶を時折煌めかせる。 もう何日も雨は降っていないのに、土埃も被っていないその石の小さな輝きはどこか非現実的だった。 雲ひとつない蒼天から降り注ぐ陽光の大半は両脇に茂る杉林に遮られ薄暗く、それはまるで冥府への道行きだと考えてから、そこが神域であったと思い出した。 この国の創世神話に基づく信仰。 それからその場所に、無くした過去の情景を見る者にとっては違う意味で。

これから死人に会いに行く。

卑怯だったかも知れない。 若く、愚かで、短慮だったかも知れない。 自惚れでなくいちばん近くに居たはずの自分ならば、違う結末を見せることが出来はしなかっただろうか。 同じ未来を見ることが出来たのではないだろうか。 悔恨なら掃いて捨てるほどした。 それでも歳月はいつしか傷口を風化させ、痛みを追憶の彼方に押しやってしまう。 忘れたわけじゃあない。 折に触れ思い出す。 柔らかく跳ねる栗色の髪の下で冷たい炎を灯すエメラルドの瞳、華奢な体躯に不似合いな節くれ立ってたこの目立つ指、春風のように耳をくすぐる声、それからあの日向けられた、あまりに頼りなく思える薄い背中。 手のひらに刺さった小さな刺みたいに、その痛みは苦く、そしていつの間にか過去だった。

長い石段を登り切る。 開けた頂上は真昼のひかりに満ちている。 くすんだ朱鳥居の向こうには、人影が見える。 頼りな気な細い背中を白い着物で包み、白い袴の足下を竹箒で掃き清めるその髪は既に白い。 見紛うはずなどない、その。 過ぎた時は本当に平等だったのだろうか。 呼吸を忘れた頬に、アーニャの視線を感じる。 彼女はずっと知っていた。 知っていて黙っていた。 それは罰だったのだろうか。

ああ、スザク。


埋没する季節が君だけを