狼がいるから、森には入ってはいけないと、寄り道してはいけないと、そうきつく言い含められていた。

そこは花畑で、柔らかな土に腰を降ろした私の前には同じように少女と少年が座っている。 草いきれと陽だまりの土臭さが鼻腔を突き、頬を撫でる風の心地よさに猫のように喉を鳴らしたくなる。 丸く開けたその花園の周囲は深い森で、幾重にも重なるその木々の陰には闇が淀む。 頭上に広がる空には鳥が舞い雲が流れるが、囀りも枝葉の擦れる音も聞こえない。 静寂の中。 茂る草の中、白い服を身に纏ったふたりの姿には見覚えがあるような気がするが、思い出せない。 シェルピンクのふわふわした髪を結い上げた表情の乏しい少女は、足元に咲く色とりどりの花の中から、白いものだけを選んで摘み取っている。 握り締めた左手の中には、絹糸のようにいかにも儚げな花弁を持つ白い花束が既に出来上がっている。 チョコレートブラウンの癖っ毛をあちこちに跳ねさせた、少女よりはいくらか年嵩らしい少年は花輪を作っている。 そこらに咲いているものを手当たり次第に寄せ集めたようなそれは、色も揃わず形もすこし歪だけれど、素朴な優しさが見て取れて美しかった。 少年の唇がわずかに動く。 まるでスローモーションのようにゆっくりと見える映像。 すぐ目の前にいる彼の発した筈の声は聞こえない。 まわりを覆う静謐な森に音は吸い取られてでもいるように。 名を、呼んだのだろう。 白い花を手折ることに意識を向けていた少女の顔が持ち上がる。 花輪を捧げ持つ少年の両の手が、少女の柔らかそうな髪を掠める。 心持ち頭を垂れた少女の髪の上に花輪は音も無く置かれる。 祝福を分け与えるように、全知全能の神がその黄金色の吐息を吹きかけるように。 緩まない口元とは裏腹に薔薇色の頬に幸福を表して、少女はその血管を流れる血液の色をそのまま写した瞳を少年に向け、すこし考えるように小首を傾げ、それからその飾られた花のような唇を動かし何かを言った、のだろう。 こんなに近くにいると言うのに、彼らの声はやっぱり私には聞こえない、のがもどかしい。 やがて少女が立ち上がる。 載せられた花輪を落とさないように、そっと頭を動かさないように。 服についた草を両手で払う仕草を見せ、座っている私より視線の高くなった少女は少年に手を差し出す。 成長しきらない柔らかさを残した手を。 伸ばされた手に少年もまたいくらか骨ばった少女とは異なる色の皮膚の手で答え、静かに立ち上がる。 私はそれを見上げる。 青空を背にした彼の輪郭は光に溶け、横顔だけを私に見せている。 短い睫毛に縁取られた瞳は太陽のきらめきを吸い込み明るい光を湛える。 ゆるやかに上がった口角には慈しみ。 ふたりは硬く手を繋ぐ。 絡み合う色彩の異なる指先と合わさった手のひら。 やがて彼らは私に背を向ける。 私は慌てて立ち上がろうとする。 待って、私も。 そう追いすがろうとする。 なのに声は出ない。 待って、どうして、と言葉にしているはずなのに、私の耳には私の声が聞こえない。 身体も動かない。 石ころでも詰め込まれたように全身が重く、腕ばかりが空を掻く。 精一杯の力を込めた脚は震えるばかりで、私の身体を支えない。 待って、待って、置いていくな、私を。 叫んでいるはずの声は聞こえない。 ふたりの姿は遠ざかる。 白い花の陰に。 生い茂る草の陰に。 白い服の背が見えなくなった。 不恰好な花輪を載せたシェルピンクの髪が見えなくなった。 柔らかそうなチョコレートブラウンの髪が見えなくなった。 あとにはただ花畑と、森と。 蝶が舞い上がった。 ちょうどふたりの姿を失った辺りから。 大きな蝶が幾羽も幾羽も。 無数の蝶の群れが舞い上がる。 大きな白い蝶。 燐粉を煌かせる四枚の翅が、百か二百かもっと多くか。 ひらひらと、踊るように。 待って、行かないで。 聞こえない声で叫びながら私は思い出していた。 乳母やに読んでもらった絵本の話。 死んだ人間は蝶になるんですよ、坊ちゃん、なんて。 違う、違う、あのふたりは死んでなんかいない。 だってあのふたりは私が。 待って、もう一度伸ばそうとした私の手はいつの間にか毛むくじゃらで、丸かったはずの爪はいつのまにか鋭く尖り硬く冷たく光を湛える。 どうして! 出そうとした声は声にならず、ただ獣の唸り声だけが喉を震わせた。 蝶が舞い上がる。 無数の蝶が渦を巻き、上空に立ち昇る。 昇天、だなんて、そんな馬鹿なこと! 太陽に向かって。 コットンキャンディみたいな雲が浮かぶ、音の無い空へ向かって。 さっきまでそこにいただろう? 私の前で花を摘んでいた、そうだろう? 否定したがる私とは別に、頭の中では別の声が鳴り響いていた。 そうだ私が食べたんだろう、あのふたりを。 髪を掴み手足をもぎ取りあの薄い皮膚に牙を突き立て、その柔らかな肉を食らったのだろう。 溢れ出る血を啜り筋肉を噛み千切りその腸を。 そうだだって私は狼だもの。 森で遊ぶ愚かな子どもは、狼にとって極上のご馳走だもの。 違う、違う、本当は違う。 一緒に遊びたかっただけなんだ。 柔らかな土の感触をその裸の足の裏で感じ、ちくちくする草の絨毯に仰向けになり、旋回する鳥を眺めていたかった。 穢れを知らないその指で花を手折り、花輪で彩られたその顔で、笑いかけてほしかった。 牙を剥いたのは私だ。 食ったのだ。 伸ばされた、花を摘み取ったその同じ腕を捉え引き寄せ、頭からばりばりと。 我慢できなかったのだ。 綺麗なその頬が、唇が、指が、腕が。 衣類に隠された胸が、腹が、足が。 愛おしくて、美味しそうで。 食えばいいと。 食えばひとつになってしまえると。 二匹のちいさな動物を。 欲しいならば。 飲み干した血は私の血になり、食らった肉は私の肉に。 私の中で生きるのだから。 それなのに、欲しかったものは消えてしまった。 彼らはその形を失って、その魂は蝶になり、触れるものに傷を付ける、鋭い爪が鈍く輝くこの手をすり抜けて、ふたりは行ってしまった。 森は静かで風は温かく花は咲き乱れる。 ひとりぼっちのこの森で。


赤ずきんの森