扉が開くのを待ち構えていた。 隔てるもの。 内と外。 彼と自分。 金属の硬い扉は軽い摩擦音と機械音と共に滑り、待ち侘びたその姿をジノの前に曝け出す。 君の内側も、こんなに明瞭に開いてくれたらいいのにね。 頬を腫らし口の端に鮮血を滲ませ打ちひしがれたその姿に、絶望と愛おしさを感じるよ、なんて言ったって君は退屈を持て余した小鳥が止まり木の上でそうするみたいにその首を傾げ、丸い瞳で意味なんてわからないってそういう顔をするんだ。
「スザク」
壁に預けていた背中を起こす。 足元を見ていたスザクの視線が、瞬時にジノを捉え、驚いたようなばつのわるいような、そんな困惑が広がる。 でもそれでいいんだ。 白い床とにらめっこしてるよりはずっといいよ。 だってもったいないだろう。 つるりと平らな床にだってやきもちをやくよ。 君のその萎れた顔にくっついてるふたつの目玉に映されていると思ったら、それだけで。 そんなものより、こっちを見てればいいとそうは思わないかい?
「手当て、しようか」
にこりと笑って自分の頬に指を当て、提案する。 たぶん却下される、即座に。 でも関係ないけどね。
「必要ないよ」
視線を逸らし背を向ける、その翻るマントの背を追いかける。 後ろから肩を抱き、くっつきそうな位置にあるその赤い頬に息を吹きかけて。
「だめだめ、皇帝陛下直属のナイトオブラウンズがほっぺた腫らしてていいわけがないだろう」
さあ医務室だ。 抱き込んだ腕に力を込め、引っ張るように歩を進める。 スザク、あの捕虜がすこし羨ましいなんて言ったところで、きっと理解しないだろう。 閉ざされた部屋の中で、おさない顔に傷だけ作って戻ってきた君が、何を話してきたのかは知らないけれど。 あの子はいいな。 スザクに感情のままをぶつけることが出来るんだ。 憎しみとか恨みとか嫌悪とか甘えとかたぶんそんなもの。 羨ましいよ。 そうしない責任は自分にあるって、分かってはいるけれど。 見栄っ張りの臆病者だって蔑まれるかもしれないね。 数センチメートルの距離にあるその赤い頬に噛み付きたいような衝動を堪えながら。


男っぷりが上がっちゃったな、言って指が伸びる。 脱脂綿に含ませた消毒液の匂いが近付く、のを見ている。 手袋を外した白い手に労わりを、短く切り揃えられた硬そうな爪に愛おしさを乗せて。 白い部屋で、白い服を着たジノを前に。
「ジノ、自分で出来る」
平静を装う声はそれでもわずかに沈みかけて響き、その事実にまた打ちのめされる。 言葉とは裏腹にソファに腰掛けた身体は浮かないし、降ろした腕も彼を拒否しない。 甘えている、甘えさせられている。
「駄目だよ、私がしたいんだから」
そう言葉にして、逃げ道までも用意して。 壊れ物でも扱うかのように慎重に、切れた唇の端に消毒液を滲みこませた脱脂綿を当てられる。 ちいさな傷口に液体が滲みるちいさな痛み。 蒸発するアルコールの清涼感。 掠り傷でしかないその傷に、ジノは大真面目に角度を変えて、消毒液を丹念に染み渡らせる。 澄み渡った青い双眸が、そのちいさな傷口を見ている。 見られている。 傷口を。 罪を、醜さを。 その居心地の悪さ。 或いはどこかで望んでいる。 罪を暴かれることこそを。 裁かれることこそを。 そんなのはただの自虐趣味だと、彼ならば笑って見せるかもしれないけれど。 それはいけないことだと、思う。 彼に許されることはあまりに幸福で甘美で。 縋ってしまいたくなるから。 自分はまだ許されてはいけない。 罪がある。 義務がある。 罪を贖い定めし義務を果たして、そのときこそ僕は。 僕はどうなるというんだろうか。
「スザク、」
怖い顔してるぞ、痛かったか? 脱脂綿をごみ箱に捨てて絆創膏の裏紙を剥がしたジノが鼻先に指を突き付ける。
「また何か馬鹿なこと考えてたんだろう」
訊かないけどね、付け加えて絆創膏を傷口に貼る。 指先が皮膚に触れる、暖かさ。 訊いてほしい、聞いてほしい。 訊いてほしくない、聞いてほしくない、聞いてほしいなんて、思ってはいけない。
「ジノ、僕は」
僕は、発した言葉は宙に浮かんだままで、消毒液の匂いだけがする部屋の中は沈黙が支配する。 ジノは黙って貼ったばかりの絆創膏のあたりを見ていて、それから赤く腫れて熱を持つ頬に視線を移す。
「湿布も貼っとこうな」
しっぷ、しっぷ、と言いながら立ち上がり壁面に取り付けられた棚に向かう。 ひらりと大きく広がって舞う草原みたいな広い緑のマントが目に鮮やかで、その裾がジノの歩みにあわせて揺れるのをただ見ていた。 目当ての物を見つけて戻ってきたジノは骨ばった指で透明な裏紙を剥がしひやりと冷たいそれを頬にあて、手のひらで押し付けるように密着させるとまた、痛かったか?と訊いた。 痛くなんかないよ。 返すとジノはそうだナナリー総督におまじないを聞いたぞと目を輝かせ、視線をわずかに上空に彷徨わせながら、こういうときにはこう言うんだ、痛いの痛いの飛んでいけ、だと湿布の上からスザクの頬を突付く。
「飛んでったか、スザク」
そうだね、ちいさく返す。 ナナリーにその言葉を教えたのは誰であっただろうか。 怪我をした幼子に、やさしくおまじないの言葉を掛けてその傷を撫でたのは。
「スザク、」
自然俯きがちになる顔をのろのろと上げると笑顔を貼り付けたジノの青い瞳とかち合う。 スザク、こんな痛みなら構わないんだ、私がいくらでも手当てしてやるからな。 粒の揃った歯を見せて笑ったジノの顔が近付いてきて、つい先ほどジノ自身が貼り付けた絆創膏の上にたぶん唇を落とされた。 絆創膏の裏の粘着テープの、苦いような味がするだろうな、とどうでもいいことを思っていた。


「すればよかったのに」
燃え上がる焔の色を背中に翻らせる後姿を睨み付けるように見送ると、ぽつりと背後で漏らされた声に振り返る。 決闘のことだろうと判断し、手のひらの中の機械に視線を落としたままのアーニャに、そうだね、と答える。
「スザクがしたくないなら、私がしてもいい」
吐き出された言葉に驚き、わずかに眼を見張る。 ともすれば無機質にも聞こえがちな口調に、確かな感情が込められていることはとっくに知っている。 青空と手入れの行き届いた庭園の花を背景に、どこか作り物めいた少女の姿態、すこしだけ物騒な言葉。
「意外だな」
本心からそう言うと、そう?と小首を傾げられる。
「ジノもやりたがる」
「そうかな」
「そう、」
スザクがしないなら。 携帯をジャケットのポケットに仕舞い込みアーニャは歩を進める。 小さいけれど、肉食動物を思わせる。 足音無く近寄ってがぶり。 しなやかな筋肉の肢体に、鋭い牙を生やして。 蕾のごとき可憐な唇に、溢れる鮮血を滴らせ。 音を立てずに隣に並ぶと、吸血鬼の二つ名で呼ばれる騎士の消えた方角を見据える。 捕食者の瞳。 緋色の。
「スザクは今でもユーフェミア皇女殿下の騎士なのね」
出された名前に返す言葉を考え、結局見つけられずに押し黙る。 そうだと、即座に肯定するのが正解であったのだろうか。 そうすることが、今でも許されるのであろうか。
「構わないと思う」
構わない、鸚鵡返しに同じ言葉を返すと、アーニャは頷く。 午後のお茶の時間、独り言なのか伝えるための言葉なのか判じかねる声量で呟くと、隣に並んだときと同じく硬いブーツの踵で音も無く歩き始める。 ちいさな姿がいっそうちいさくなる前に、その揺れる髪と清らかな白い服の背に続き足を踏み出す。 構わない。 言われた言葉を反芻する。 構わない。 そうなら、どんなにか良かっただろう。 ユフィ。 君はもう居ないのに。 君の名前さえ守れない。


ジュリエットの箱庭