すっぽりと彼のさほど大きくない身体全部を隠してしまう談話室のソファを覗き込むようにすると見える幼さを残した横顔には、隠しきれない影が落ち、象牙の肌は幾分色褪せて見える。 視線は中空。 ぼんやりと。 何かが見えているわけでもないだろうに。
「顔色が悪いわ」
声を掛けるといくばくかの空白のあと、スザクが怠慢な仕草でこちらを振り向く。 モニカ。 呼ばれる名前。 彼の唇が紡ぐ私の名前は少し舌足らずに聞こえる。 ナンバーズ出身とはいってもネイティブとさほど変わらぬ流麗なブリタニア公用語を操る(読み書きのほうはほんのすこし苦手みたいだった、ほんのすこしだけ)のに、たぶん癖なんだろう、いつもすこしだけ注意深く、発音を確かめるみたいに舌に乗せられるその危なっかしい響きが、私には好ましく思えていた。
「ちゃんと寝てる?食べてる?」
私は言葉を続ける。 咎めるような口調にならぬよう、細心の注意でもって。 よかったら、と手にしていたティーカップを差し出す。 暖かな蒸気と香気が立ち昇る。 スザクはすこしだけ頬の筋肉を緩め(たぶんそれは微笑んで見せたのだ、今の彼に出来る精一杯で)、ありがとうという言葉と一緒に伸ばした男性にしては華奢な手に、透明な琥珀の液体で満たされたカップを取る。 細かな透かし模様が美しいソーサーの下でほんのひと刹那触れ合った指先の冷たさに、私の心臓もまた震えた。

ナイトオブスリーであるジノ・ヴァインベルグが私たちの前から姿を消したのは二週間前だ。 正確には、彼の前から、だけれども。 私はその時ブリタニア本国に居た。 帝都の真ん中で、待機とは名ばかりの退屈で単調な毎日を過ごしていたから、スザクと一緒にエリア11に向かったジノと最後に会って話してそれから時折そうであるようにベッドを共にした日というのは、そこからさらに一月ほど遡ることになる。 正確には42日前。 記憶の中のジノは私のよく知るジノのままで快活に笑い、私の髪をその大きく暖かな手で撫でてから、モニカはいつもいい匂いがするとつむじの辺りに尖った鼻を埋める。 香水じゃあないな、シャンプーか?違うな、モニカの匂いだ。 女性に匂いのこと言うなんてマナー違反だわとちょっとだけ眉を吊り上げて見せても、いい匂いだって言ってる、それにモニカ以外のレディには言わない、モニカだけだと胸を張るから、そこで私は苦笑するしかなくなってしまう。 私だけだなんて、それで特別扱いでもしているつもりなの? 勿論だよモニカ。 ジノは、私の若葉色よりもくっきりと目に艶やかな翠のマントの下で、白い騎士服に包まれた筋肉で引き締まった腕を広げる。 私のために開かれたその腕の中で、私もまた爪先立ちし、ジノの金の髪に顔を寄せる。 私のよりもすこしだけ明るい色をして、私のよりもすこしだけ固いそれ。 整髪剤の匂いと、それからすこしだけ感じる皮膚の匂い。 三つ編みの付け根のあたりに鼻をこすりつけるようにするとジノは身じろぎ、くすぐったいよと笑った。 そのときのジノの、喉の奥で震えるような笑い声は、まだ耳鳴りのように私の鼓膜にそのかたちを残している、ような気がする。 手袋を嵌めたままの指が落とした若葉色のマントとか、暖かな吐息が触れた耳たぶだとか、すこし固めの金の髪がくすぐった膝小僧だとか、そんなところにも。 残っている気がする。 刻まれている気がする。 やさしく、あたたかく、たしかだった感触で。 そんなのはもちろん錯覚でしかないのだ。 あるいは感傷。 思い出はいつも綺麗、なんて。

ジノと最後に接触したのは、スザクだったらしい。 場所はアヴァロン内の格納庫だったというから、その場には他に何人もの整備士や作業員が居たはずだ。 出撃前の一時。 私は二人と戦場を共にすることは少なかったけれど、それでも同じ状況下での彼らの様子を目にしたことはあった。 出撃前のジノはいつだって、平時と同じように軽口ばかりを叩きながらも鋭さの加わった瞳で、オペレーターとの最終確認を済ませ儀式のように愛機のどこかしらを一撫でする。 グローブを外した白い剥き出しの手で。 ジンクスのようなものなのだろうと思っていた。 力量差があっても、経験があっても、絶対ということは決して無いから。 階級や所属に関わらず、軍務に就く人間には案外とそういう人間がいるものだ。 パイロットであれば、なおのこと。 例えばそれはパイロットスーツの中に忍ばせる恋人の写真であるかもしれないし、必ず右から履くと決めたブーツかもしれないし、己の信じる神へ捧げる祈りかもしれない。 行為自体には何の意味も無くても、決めた順序を規則正しくなぞることで、同じ場所へ必ず戻り同じ日常を繰り返すのだと、それが叶うのだとそう信じたいのだろう。 気休めでしかないということも承知した上で。 確かな実力でナイトオブスリーという地位に立つジノがジンクスなんて、と気付いたときに私はすこし意外だった。 努力と苦労に裏打ちされた自分に対する絶対の自信に、そんな不確かなものが入る余地があるようには思えなかったからだ。 彼がその鋼の雌馬に触れる仕草には、気負いや緊張なんてものは微塵も感じられない。 そこから見えるのは、彼の戦場での半身となる機体への慈しみだ。 よろしく頼むよ、とでも言いた気に。 今になって思うと、なんて、鈍いにもほどがあるのだけれども、私はジノのその指先が好きだった。 私に触れる指先よりも、任務指令書にサインをするためにペンを握る指先よりも、作戦区域地図を広げる指先よりも、一切れのアップルパイを突き刺したフォークを持つ指先よりも、それが。 そんな指先で触れられたいと、たぶんそう思っていた。 愛おしむように、それでいて、力強く確かな信頼でもって。 私はその指先を見ていた。 だから気付いた。 スザク、と呼んだ声に、ヴァインベルグ卿、と答えかけてジノ、と言い直す白いパイロットスーツの背中。 その場所に、晒された指先でもってまわされる腕。 戦闘が終結したらピクニックにでも行こう、この近くに綺麗な湖があるんだ、バスケットにランチを詰めてみんなで、そうだみんなでだ、だから地形変えるまで大暴れなんてしちゃいけないぞ。 ジノ、不謹慎だよ。 並べられたふたつの機体に向かうその後姿で、ジノは覆いかぶさるようにスザクに抱きつき、その手で至近距離にあるココア色の髪に触れる。 手のひらで、包み込むように。 無造作を装って、それでも確かな感情を込めて置かれたその手に。
「怪我しないで帰ってこいよ」
「善処します」
大真面目に言っているのかそれともすこしおどけてみせたのか判断のつきかねる答えを返し、スザクはランスロットに、ジノはトリスタンに乗り込む。 私はその時すこし羨ましかったのだ。 あの手に、あの指先に、触れられたスザクのことが。

二週間前、戦闘開始前の格納庫で彼らがどんなふうだったのか、私は知らない。

ぎゅうと私を抱きしめたジノが漏らした言葉がある。
「ビスマルクに怒られちゃったよ」
「ビスマルクに?」
「うん、入れ込みすぎるって」
入れ込みすぎる。 私はジノの言った言葉をそのまま反芻する。 開かない唇の中で、音にはせず。 すこしだけ考える。 彼の望む言葉。 私の望む言葉。 音にする前に、もう一度だけ躊躇う。 正解であるかどうか、すこし臆病になる。 誰のための、言葉になるのだろうか。
「でもジノは、そうしたいんでしょう?」
何を指しているのか、誰を指しているのか、確認すら必要のない、それはまるで公然の秘密だった。 私が見ていたように、ビスマルクが気付いていたように。 多分、誰もが。
「うん」
かっこ悪いかな、とジノは自嘲を滲ませて呟いた。 私の髪の中にその声は落ちたから、私はそれを受け止めたのだ。

ジノは変わらなかった。 表情は見せずに、泣き出す寸前のおさないこどものように、掠れて、すこし上擦った声を私に聞かせたことがあったなんて、嘘みたいに。 私だけが見た夢だったのではと思うくらいに。 いっそ清々しいほどに、ジノはいつものジノで、朗らかに笑いスザクの肩に腕を回しアーニャの携帯の前ではにっこりポーズを作り、ベアトリスの前では渋い顔をして戦場では青い機体で敵を殲滅し敵兵を恐怖に慄かせる。 そして二週間前のある日突然消えてしまった。 彼の愛機ごと。 滑らかだけれど骨の太い、あの指で触れていた彼の半身ごと。 複数のナイトメアが入り乱れて戦う中、モニターに写された彼を示すネオンイエローの点が突如消失した。 それが私の聞いた事実の全てだった。

スザクが本国へ戻ってきたのはそれから四日後で、イルバル宮で顔を合わせた私にスザクは一言ごめんと言って俯いた。 スザクはきっとそう言うだろうと私は予測していて、あんまり想定通りの芸のない言葉に私はかえって悲しくなって、用意していた言葉(傲慢だわとはねつけてやるつもりだったのに)を言うよりも、目の前の下がった両肩やかたく握り締められた拳にみっともなく縋り付いて、あなたが羨ましいと言いたい衝動を堪えて黙った。 つもりだったのに。 私の指はいつのまにか目の前のブルーに伸ばされていて、ぎこちなく強張ったからだに直接響かせるみたいに唇をその白い騎士服の胸のあたりに押し付けて私は舌を震わせていた。 どうしてかな。 スザクは答えなかった。 まっすぐに降ろされていた腕はそろそろと上がり、私の肩甲骨の辺りを叩く。 静かに、一定のリズムで与えられる、彼の手のひら。 こどもをあやすような真似はやめて、私は言葉にしたつもりだったけれど、それは握り締められて皺になり始めた服の中に消えていた。 陽が落ちるまで私たちはそうしていた。 ふたりで、そうして。

中華連邦との軍事境界線上にトリスタンが現れたのはその翌週のことだった。 背には禍々しい紅色の翼を背負い、振りかざした槍でサザーランドを蹴散らしたその機体、その動き。 よく知った、それ。 間違いようのない。 談話室の壁面いっぱいのおおきなモニターでそれを見ていたスザクは無言だったし、私も何も言いはしなかった。 怖い顔、というのとは違う。 無表情、というのとも違う。 諦めとか、絶望とか、かなしみとか、それらすべてを受け入れた、凪いだ海のような、静かな顔で。 あの時を連想した。 死んだとされているゼロが再び現れたあの時。 あの時のスザクは視線だけで人を殺せそうなほど険しい目で画面を見ていて、でもその隣には彼がいたのだ。 今はもうここにはいない彼が。 ジノが。
「スザク、」
「大丈夫」
大丈夫だよ、モニカ。 穏やかに吐き出された言葉はなんて平凡で頼りない。 私はそっとスザクの手を取る。 普段は皮手袋に覆われている、その手を。 なめらかに見えてその実、固いたこのいくつも出来たその手を。 東洋人特有の黄味を帯びたその肌の色はあたたかく見えるのに、触れてみるとひどく冷えたその指先をそっと包む。
「大丈夫よ、勿論」
大丈夫なんて、誰が。 ジノが?スザクが?それとも私が? 大丈夫なんて、どう大丈夫だっていうの? それでも私たちは指先を触れ合わせ、互いの熱を交換させる。 傍にいるから、それだけで。 触れるものなんて他に何もないから。 意味のない、音だけの言葉と共に。
「大丈夫、」



葉陰にて