初夏の午後に降る雨みたいに。 やわらかな音を立てる。 ぱたぱたと。 あたたかな。 快い温度を伴って。 薄く土埃に覆われた乾いたアスファルトにやさしく染み渡っていくみたいな。 太陽煌く空みたいな色してふたつ並んだ瞳から。 雨雲の切れ間から差し込む、天使の梯子なんて呼ばれる日光みたいな睫毛の上を滑走して。 湿らせる。 引き締まった白磁の頬を。 ふたすじの雫は顎でひとつになり、そこからまた滴り落ちて、僕のジャケットの肩を、硬いコンクリートの床を。 濡らす。 潤わせる。 ジノが。

事後処理を終えて政庁の敷地内に隣接された宿舎に戻ったのは真夜中だった。 お送りしますと用意されたリムジンを固辞した。 歩きたかった。 ひとりで。 故国の大地を。 亡くした国の上を。 変わることのない空の下で。 変わったかもしれない自分自身を抱えて。 亡くした友人を想って。 規則正しい靴音が、ビルディングの谷間で反響する。 整備された歩道を踏んでいく自分の音。 暗い道の中、一層暗く伸びる自分の影。 街灯に照らされて、四方八方へ。 死なせてしまった友人の名前ばかりを反芻する。 シャーリー。 涼しげに耳を擽る音。 永遠に失われてしまったもの。 彼女を死なせてしまった責任の一端は、僕自身にも。 悔恨なんて何の慰めにもなりはしないと知りつつも。

照明の落とされた政庁の厳しい正門前には、警備の兵が背筋を伸ばして立ち、僕の姿を認めると敬礼をする。 ご苦労様です、と一声かけ、施錠された正面玄関ではなく、通用口に回る。 カードキーで開けたドアは軽く音を立てて滑り、緑色の非常灯だけが点された廊下へ踏み込もうとすると、すこし先のフロアでごそりと何かが動く気配を感じてわずかに身構える。 壁際に置かれた大きなガジュマルの鉢植えのうしろから立ち上がったその影は大きく、窓からの薄暗い光の中を一歩進むごとに輪郭をはっきりさせる。 薄闇の中でなおあかるい黄金の髪が、非常灯を受けて鈍く光る。 夜の中のひかり。 沈み行く世界に決して同化しないその色。 おかえりスザク、遅かったね。 凝り固まった空気の中をなめらかに滑ったその音は、隙間を埋めるみたいに僕の鼓膜を静かに振るわせる。 ともすれば思考の泥の中にずぶずぶと埋もれてしまいそうな意識を繋ぎ止める、それはまるでカンダタに差し伸べられた蜘蛛の糸みたいに。 縋った次の刹那に、己の無慈悲ゆえにぷつりと切れてしまうだろうというのに。 ああでも僕は、ちいさな命ひとつ、救ったことがあっただろうか。 ふるりと眉のあたりの筋肉が震えそうになるのを堪える、持ちこたえる。 目の前の、いつもの純白の騎士服でもなく、昼間の彼のような奇抜な装いでもない、ゆったりとした部屋着を纏ったその姿を、まっすぐ見つめることが出来ず視線をわずかに外す。
「ジノ、どうしたのこんなところで」
「待ってたんだ、決まってるだろう」
「僕を?」
「他に誰が居るっていうんだ、私を待たせるなんてそんなのおまえくらいのものだぞ、ナイトオブスリーのこの私を!」
ジノは胸を張る。 非常灯の頼りない光の下でさえ、その質の良さを感じさせるやわらかなシャツの生地が揺れる。 常と変わらないジノの態度は、僕の内側をささくれさせる。 ジノの傍は、いつもあんまりにも陽だまりみたいに明るくて暖かくて、それがあんまりに居心地悪くて、大きな声で外聞もなく泣き喚いてしまいたくなる。 今日みたいな日には特に。 今日。 シャーリーが死んだ今日。
「ジノ、悪いけど今日は、すこし」
ひとりになりたいんだと言外に含ませる。 能天気な振る舞いばかりが目に付く彼だけれども、その実、必要なときにはさりげなく細やかな心配りをしてくれる彼だからと、その横をすり抜けようとする。 踏み出した足の先がコンクリートの上を叩くよりも早く。 スザク。 声と一緒にまわされる腕。 いつもみたいに肩を抱くのではなく、正面から、捕まえるように。 身体全部を。
「ジノ、」
「聞いたよ」
咎めようと発した声は遮られる。 耳の後ろのすぐ傍で、すこしくぐもった声が鳴る。 皮膚の表面から脳髄に滲んでいくみたいに。 それは僕の細胞の動きだって止めてしまうみたいに。
「うん、」
ジノの耳にだって入らないはずがないのだ。 たったひとり、民間人の死者として報道されたその名前を。 ほんの短い時間だけれども、ままごとみたいな学園生活を共有したあのやさしい女の子の名前を。 笑って、はしゃいで、照れて、怒って、困ったみたいに眉を下げて、ルルーシュの前でほんのすこしはにかんで、僕に微笑んで、そしてときどき泣いたあの子の名前を。 スザク。 呟いてジノの手が背中を撫でる。 トリスタンの操縦桿を握る手が。 人殺しのために使われる手が。 上下する。 背骨の辺りを。 他人の温度が。 スザク。 明確な慈しみを含んだ響きで、名をなぞられる。
「おまえはきっと泣かないんだろう、だから私が、」
私が代わりに泣いてやる。 続けられた言葉に驚き、その表情を確かめようとするが、いくら首を捻ってみたところで視界には、彼の着ている滑らかなペールグリーンのシャツしか映らない。
「ジノ、」
「いいから」
答えたジノの声はもう、水分を含んでいる。 身体を拘束されたまま、自分の腕をそっと彼の背に回そうとすこしだけ上げて、やっぱり止めた。 ちいさく鼻をすする音が、意外なほど大きく聞こえた。 無人の廊下に。 真夜中の宿舎の。 本来なら僕が出すものだというみっともない音を響かせる。 水の気配がする。 彼から零れ落ちる。 ちいさな雫の一滴の。



小夜啼鳥は溺死する