繰り出した拳の先でガラス窓は呆気なく砕け散り、破片はきらきらと月光を浴びて煌めきながら落下していったけれど、そんなのはどうだっていいことだ。
割れた窓の向こうの夜を背負ったスザクは、いつものちょっと困ったような顔で笑ってみせて、ジノ、と抑揚のない静かな声で言った。 「ジノ、そんなことしちゃいけないよ、怪我、しちゃうよ」 おまえがそれを言うのかスザク。 「ばかじゃないのか、おまえ」 言った声は自分でもびっくりするくらい冷たく響いた。 言われたほうは顔色ひとつ変えないでそうかな、と答えた。 そうかな、だって! ナイトオブラウンズの一人として、第七席にその名を連ねる枢木スザクが、政庁内のラウンズそれぞれに与えられたプライベートルームで刺傷したという報せが迅速に、しかし密やかに回されたのは、どんな仲睦まじい恋人達のベッドの上もそろそろ静かになろうかという時間帯で、普段ならそんな時間に政庁内になんかいるわけのないジノがそれを耳にしたのはほんの偶然だった。 先のEU戦線で功績のあった武官に対する叙勲式に警護という名目で何時間も背筋を伸ばして立たされ続け、帰庁してからひとやすみのつもりで談話室のふわふわした長椅子に寝そべっていたら気を利かせてくれたのかそれこそ寝た子を起こすのは得策ではないと思われたか、とにかく放ったらかされたまんま時間だけが過ぎていたらしい。 分厚いドアを通してなお聞こえるばたばたという無数の無粋な足音に安らかな眠りを妨げられ、すこし不機嫌にドアを開け、いきなり開いたドアに驚いて立ち止まってしまったせいでその長い腕に掴まえられてしまった運の悪い執務官から聞かされた言葉に、ジノは晴天の夏空みたいねなんて形容される青い瞳を剥く。 スザクが刺された、それもこの政庁内で。 体中の血がざっと落ちる音が聞こえたような気がした、のは一瞬だった。 すぐに思考を巡らせる。 容態は、暴漢は、この始末は。 彼に憎しみを抱いている人間が少なくないことは勿論承知しているけれど、それでもここはセキュリティの行き届いた政庁の真ん真ん中で、仮に警備をかいくぐって潜入したところで、帝国最強の騎士のひとりである彼にそう簡単に刃を突き立てることなんてできるはずがないのだ。 それなのに。 大した怪我ではありませんし、相手の身も確保しています、勿論命に別状はありませんから、しかし何せナイトオブラウンズが刺されたなんて、と吃りながら答える執務官を解放してやり、自室にいるというスザクのもとへ向かう。 ばかじゃないの、何やってんのスザク、おまえそんなに弱くないだろう。 走りたいのを堪える、のは廊下を走るなという普段からの言いつけのせいではない。 スザクが刺された。 伝えられた言葉を繰り返す。 頭の中で何度も。 スザクが刺された。 大した怪我じゃないから、命に別状はないから。 それでもスザクが刺されたなんて。 スザクの部屋まで大股で歩く間に意識を落ち着ける。 スザク。 何やってんだおまえ、ほんとうに。 重厚なマホガニーの扉が並ぶ廊下。 スザクに与えられた部屋は奥から三番目。 遠目にも確認できるのはそこだけ扉が開け放たれ、引っ切りなしに人が出入りしているからだ。 薬品の乗ったカートを押した医者、駆け回る警備の兵、ぺこぺこと頭を下げてまわる執務官、すれ違う彼らはナイトオブスリーであるジノの姿に一旦足を止め礼をするけれど、普段ならば簡単に手を挙げて応えるジノも今ばかりは気も付かないというように通り過ぎる。 スザク。 開きっぱなしのドアの前に立つと、一間しかない部屋の全てが見渡せる。 真正面、庭園に向かって作られた窓を背に、スザクは俯くように立っていた。 大きく切り開かれた黒いインナーの上腕部から覗く白い包帯がまず目に留まる。 それからくせっ毛の跳ねる頭部と、ブーツを履いた爪先まで視線を上下させ、他には常と違う様子がないことに、知らず詰めていた息を吐き出す。 「スザク、」 スザクは顔を上げる。 ああ、やだな、そんな顔して。 そんな、空っぽの顔で。 ジノ、なんて、そんな虚ろな声で呼ばれる自分の名前なんて、ちっとも聞きたくないんだけどスザク、おまえなんでそんなことわかんないの。 どかどかとわざと足音を立てるみたいに部屋に踏み込む。 自室と同じ間取り、柄の違う絨毯、窓の側に置かれた寝台の上、皺一つない真っ白なシーツ。 視界の端でそれらを捉えながら、呼吸をひとつしてから唇を開く。 「怪我の具合は」 「大したことないんだ、ほんとうに、ナイフが擦っただけだから、止血しておしまい」 心配することなんかなんにもないよ。 包帯を巻かれた自分の腕を軽く叩いて、スザクは微笑んでみせる。 幼子を安心させる母親みたいな顔で。 そんな顔を作ってみせてほしいわけじゃないからジノは苛立つ。 身体の内側がざらつくみたいな。 その感情は声に出る。 「ほんとに?」 「ほんとに」 固い声はまるで怒っているみたいだ。 って言ったってジノは今怒っているんだから怒ったみたいな声が出るのは当たり前だ。 怒り。 誰に対して? 決まってる。 スザクだ。 刺されるなんてなんで。 戦時でもないのに。 こんな場所で、こんな時間に。 ああいやだ、こんな声で目の前の暴漢に襲われた被害者のほうを罵ったりしたいわけじゃないんだけれど。 「相手はどこのどんな奴」 「ええと」 困ったな、というスザクの呟きが聞こえた。 なんで困る必要があるんだよ、絨毯の上をうろうろ彷徨うスザクの視線を咎めるようにもう一度尋ねる、すこし強い口調で。 「誰だ」 「ええと、ちょっと知ってる子だから、だから、ほんとうに」 「知ってる子?知ってる子だから甘んじて刺されてやったっていうのか?」 文字通りの出血大サービスだな、なんて全然笑えない。 眉間に寄った皺が深くなるのを自覚する。 スザクは口角をゆるく上げる。 しょうがない駄々っ子でもあやすみたいに、ジノ、と優しく呼ぶ。 「僕の失態だ、本当に、それだけだから」 「スザク、」 お前が隠したってすぐに知れる、そんなことくらいわかってるだろう。 そこでうろちょろしてる下士官を捕まえて誰なんだって訊けばそれでおしまいだろう。 なんで隠す、なんで庇う。 スザクはゆるく首を振る。 隠してるわけじゃない。 「ニーナだよ、知ってるだろう、シュナイゼル殿下のところのチームの」 僕の学友でもあった。 そう付け加えてスザクは笑った。 そこでジノは漸く事件の概要を悟った。 彼の部屋に、ときどき客人があることは知っていた。 時間は決まって夜で、人目を忍ぶようにドアを叩く。 防音の行き届いたこの一角で、その音を耳にしたわけではないけれど、部屋に滑り込む黒髪の後ろ姿を見掛けたことがあった。 つまりはそういうことなのだろうと、追求するような野暮な真似はしなかったけれども、相手は誰なのだろうと単純な興味をそそられたことがないではなかった。 清廉潔癖で色事とは無縁に見える彼の元を訪れる客人。 それが彼のかつての学友だという。 そして、それだけではないということもジノは知っていた。 彼がかつて専任騎士を務めていた皇女殿下。 不遇の死を遂げたお姫様。 スザクに開いたその穴の大きさは、ジノには推測することしかできない。 そして彼女を慕っていたという少女。 かなしみの一部を、スザクとニーナという少女は共有していたのだろうか。 たぶん、違うんだろう。 同じ人間を失っても、そのかなしみは他の誰かと同じものではないのだ。 スザクのかなしみと、ニーナのかなしみの、それは似て全く非なるものなのだと思う。 それぞれ、自分自身だけの。 それでも彼らは、お互いの中になくしてしまったものの欠片を見つけたのだろうか。 見つけてしまったように錯覚し、求めたのだろうか。 夢の残滓を。 甘い残り香を。 違う。 少なくともスザクにとっての皇女殿下は、思い出として追い求めるものではないのだと感じている。 スザクは口には出さないけれど、何も言いはしないけれど、それは多分彼が前に進むためにこそ必要なものなのだ。 名残惜しく後ろを振り向き感傷に浸るものではなく、確りと歩いていくその足場となるのだろうと、思う。 そしてそれは自分以外の他者の中に求めるようなものではないのだろう。 それでは彼女のほうはどうであったのだろうか。 己の慕っていた者を守ることも叶わずに、虐殺皇女なんて忌まわしい通り名で呼ばせているかつての騎士に対して、どんな感情を抱えていたというのか。 憎しみとか恨みだとか、それとも羨望だとか嫉妬だとかそんなものか? その結果がこんな茶番だってそういうことかいスザク。 出来るだけ大事にはしないようにと手を回している、シュナイゼル殿下には明日の朝一番に、こんな時間でもまだ研究所にいるかもしれないロイド伯爵には、もう連絡がいっているかもしれない。 とにかく穏便に、行き過ぎた痴話喧嘩だとでも処理してくれればそれでいいんだ。 スザクは笑ってそう言う。 どこか諦めたような色をそのすこし下がった目尻に乗せて。 大丈夫、僕は死ねないから。 だからほら、掠り傷ですんでるだろう。 言って包帯に包まれた腕を撫でる。 血の色なんてかけらも見えない白。 スザク、それでもいつものおまえだったら、そんなちいさな怪我だって絶対に負わなかっただろう。 いつかそうやって、おまえの甘さがおまえを殺すから、それが怖いんだよ。 そう言ってみせたところで、スザクはきっと変わらない。 心尽くしの言葉をいくら捧げたところで、無言のままに抱きしめたところで、こらえ切れずにその横っ面を引っぱたいてみたところで。 貼り付けたみたいな薄い微笑みでもって、そうかな、っておまえは言うんだ。 なんて残酷な言葉なんだろう。 いつだって、いまだって。 タナトスの祭壇 |