中天に、爛々と光る猫目のような月が架かる。
生暖かい夜風に乗って三味の音と華やかな女の笑い声と、朗朗と詩を唄い上げる男の声が届く。
誰が云ったか天誅などと、今宵もどこぞの辻では白刃が月光を受けて煌き、血飛沫の中ひとの首が落ちる。
ある、初夏。 行燈の火が揺らめき、帯を締め身支度を整える男の影を不明瞭にする。 猿野天国は格子窓に背を預け、覚えたばかりの煙管を燻らせながら、手際良く乱れた髪を一端解いて結わえ直す男の両手の動きを見ていた。 ふうと吐き出した煙が男のほうに流れて、男は不快感を露わにして猿野を睨みつけた。 猿野は煙管をもう一度その厚めの唇に近付けて、満足げに新しい煙を肺に吸い込む。 「煙草は止めろと云った筈だが」 「なんで俺がアンタの云うことに従わなくちゃいけないンですか」 フンと鼻白み猿野は云う。 男はきりりとした眉を露骨に寄せる。 「俺が煙草を嫌いだからだ」 「そんなの俺の知ったこっちゃアありません」 何が楽しいのか猿野はけたけたと笑い、窓の格子に煙管をたんと叩きつけ煙草を瓦の上に捨ててしまうと、うつ伏せに寝転がった。 ちりんと鈴の音がして、男はそちらに眼を向ける。 猿野は男の視線を辿り、ああ、という風に左手のものを掲げて見せた。 「いいでしょう、凪さんに貰ったんです」 あげませんよと付け加えて、猿野は寝転がったまま胸を張り、煙草入れに付けた鈴を振って見せた。 室内の行燈と、格子窓から差し込む月明かりに光る鈴はちりんちりんと澄んだ音を奏でる。 「貴様が入れ込んでいる島原の妓だったか」 「島原の妓、じゃなくて、凪さん、です」 「変わらんだろう」 「大違いです」 屯所の傍の屋敷の桐が咲いたんで無断でちょっとばかり拝借して一枝持って行ったんです凪さんはでっかい瞳をいっぱいに見開いたあとありがとうございますと笑顔で云ってとても喜んでくれて何かお礼をと云ったんです俺はそんなつもりじゃあないから別に構いませんよと云ったンですが凪さんはこんなものしかありませんがって帯に飾っていたこの鈴を俺にくれたんですだから俺はこれを煙草入れに付けて肌身離さず持ち歩いているってェわけです。 羨ましいでしょう、あげませんよ。 猿野はもう一度そう云って、煙草入れを左手の中に隠した。 てのひらの中で鈴は揺れ、くぐもった音を立てる。 ちり、ちりん。 行燈ひとつの室内は薄暗く、満月を三晩ほど過ぎ、まだ大きな月に照らされた外の方が明るい。 畳に寝そべったままの猿野が見上げる男の姿は、影に深く彩られる。 きつく結わえた髪が窓から入る風に揺れるのが、僅かに見て取れる。 通りの向うから聞こえる三味線は哀愁を帯びた曲に変わっていた。 賑やかな女の笑い声も、滑稽を唄う男の声も何時の間にか止んでいる。 どこか遠くで、蛙も鳴いている。 男は腰を屈めて、床の間にいかにも大切そうに置かれた朱鞘の脇差に手を伸ばす。 傍にはその鞘によく似た朱塗りの盆と、空になった江戸切子のぐい呑みが転がっている。 鍔には、精巧な桐の花の透かし彫りが施されている。 階下の刀掛けに預けられた大刀にも、揃いの美しい細工が入っていることを猿野は知っている。 淡い紫の下緒も、鍔に咲いた桐の花にちなんでいるのだろう。 男の差料は反りの無い長刀だ。 すらりとまっすぐなその刀は持ち主に良く似合ってはいる。 無造作に放り出した猿野の脇差は、入口の障子のあたりに落ちている筈だ。 黒呂の鞘に収まった脇差は、薄闇に沈み込んで見えない。 「貴様は莫迦か」 「何でですか」 猿野は唇を尖らせる。 男は脇差を腰に差す。 「腰に飾りをぶら提げて歩いているのでないのなら、己の指先も見えぬ闇の中で刃を交える事もあるだろうに、そんなもので自分の位置を報せるなどと、」 愚かだとしか云いようが無い。 見下ろす男の睛の色は、猿野からは窺えない。 そんなの俺の勝手です、そん時には何とか考えます。 それにアンタだって。 大層な大莫迦モンじゃねエか。 最後の言葉は、音に出さずに呑み込む。 そのことには、気付いてはいけない。 あんな代物を腰に提げ今の京の街を歩くことが、如何に危険か知らぬわけでもなかろうに。 特徴的な長刀を目印に、治安保護の為取締りと称して片ッ端から斬って捨てているのを知っていように。 猿野達が、幕府の犬とまで陰口を叩かれながら、そうしているのを分かっていて尚。 名を聞いてはならない。 覚えがあれば斬らねばならぬ。 だから見て見ぬ振りをする。 しなやかに付いた筋肉を横切る真新しい傷にも着物の裾に飛んだ血の飛沫にも不意に出る言葉の訛りにも。 それが誰かは知らぬ方が良い。 知れば、恐らくは。 男は猿野に背を向ける。 見た目通りの硬い髪を、朱と金の組紐で結わえた後姿。 猿野が思い出すときの男は、何時だってその姿をしている。 居丈高に説教をしながら見下ろす姿より、冷酒を交わしながら絡める視線より、いつも。 銀鼠の小袖を着流した男の背中は、行燈の灯りよりも月光に良く映える。 男は振り向かずに、障子に手を掛け開け放つ。 廊下の向こう、松が伸びる狭い中庭にも、月光。 階段が軋み男の気配が遠ざかる。 猿野は身体を反転させ仰向けになると、屋根越しに空を見上げる。 月が明るすぎて星は見えない。 こんな晩にもどこかで刀がひとの肉を断ち骨を砕くのだろう。 夜風は初夏特有の湿り気を帯び、頬を撫でる。 ねえアンタ。 アンタは辞世でも用意しといてください。 誰かがアンタを斬るのなら、それは俺の役目です。 アンタは顔色ひとつ変えずに、俺にその桐の鍔に飾られた刀の切っ先を向けるンでしょうね。 アンタはその時何を想う。 己の大志に酔いしれるのか、それともその罪深さを悔いるのか。 多分そのどちらでも無いンでしょうが。 例え闇の中で相対したとして俺の居場所は分かるでしょう。 ちりんと鈴のなるところ。 アンタは俺を笑いますか。 望むところだと云ってやりましょう。 アンタはきっとお強いでしょう。 俺は、アンタに勝てるでしょうか。 それともアンタのあの綺麗な刀の、錆なり曇りなりに、なるんでしょうか。 ねえアンタ。 俺以外の奴に殺されないで下さい。 アンタを斬るのは俺がいいンです。 そうなったら供えてあげます。 随分お好きなようですから。 アンタの墓には、桐の花を。 ちりん、と鈴が鳴る。 朱色の闇 |