柔らかな髪を撫で錦の帯に手を掛ける。 幾重にも重なった衣を剥がし、紅の襦袢の下には日の光を知らぬような白肌。 滑らかなその肌にそっと触れると僅かに息を呑む気配を感じた。 行燈の灯りだけの薄暗い部屋の中に、強い香の匂いに混じって水の匂いと衣擦れの音が満ちている。 相手に気付かれぬように零した細く長い溜息のあとは、只何時もの行為。 それはまるでけもの同士の交わりのような、言葉も労わりも無い快楽を求めるためだけのもの。 情も無く、子を成すことも無い非生産的なその行為に夢中になる。 或いは夢中になる振りをする。 外は雨。

一通りの行為の後で、布団に寝転がったままオルガは決まって煙管をふかす。 横からついと腕が伸びて、同じ布団に入ったままのシャニが煙管を取り上げ勝手に一服吸い上げるのもいつものことだ。 肺に一息煙を吸い込んで、煙管はすぐにオルガの唇に返す。 裸のままで薄灰色の煙を細く吐き出しながら、シャニは枕元に置いた徳利に手を伸ばした。 すっかり温んだ辛口の酒を、猪口にも注がずに行儀悪く直接口に注ぎ込むと、そういえば、とシャニは口を開く。
「あんたにはもう会えないよ」
抑制の無い口調で告げられた言葉に、オルガはぼんやりと天井に漂わせていた視線を、傍らで頬杖をつくシャニに移す。
「どういう事だ」
「別に、身請けが決まったっていうだけ」
「そうか」
言葉はそこで途切れる。 オルガの視線は再び天井に戻り、薄い唇に咥えられた煙管の先端に移った。 シャニは気だるげに徳利を傾げ、酒をまた口内に注ぎ込む。
「聞かないの」
「何を」
「何で、とか何処の誰が、とかそういうのを」
「別に」
「そう」

絵師仲間に連れられて、初めてこの見世を訪れた日のことをオルガは今でもはっきりと覚えている。 あの日も雨が降っていた。 初めてオルガの描いた絵が流行本の挿絵になった日。 さア祝いだ何だとかこつけて、吉原にでも繰り出そうかということになったのだ。 あまり気乗りしないオルガを他所に、仲間達は陽気に騒ぎ立て黒塗りの吉原大門を潜る。 仕様がなくオルガもそれに続く。 傘の上で雨粒が跳ね、その音が酷く耳障りだった。 祝いとは云っても貧乏絵師の仲間内、大見世に入るほどの持ち合わせも無い。 大見世の総まがきを横目に格子の中の女郎を品定めしながら小見世、中見世を冷やかして歩く。 雨の所為で人の出も少ないらしく、妓夫も常より必死に道行く客の袖を引く。 降りしきる雨に堤燈の明かりが滲む。 前を行く絵師仲間の背も何時の間にか遠い。 ふと足を止め、懐を探る。 ある見世の格子の前だった。 何時も懐中している煙草入れを出す前に、格子の隙間から煙管が差し出された。 煙管から続く白い腕、鮮やかな紅葉の打ち掛けの上に白い顔。 軒先に吊るされた堤燈の明かりを遮る影に、顔を動かさずに視線だけを上げたらしい。 傘から雨粒が滴って落ち、オルガの着物の肩に染みた。 差し出された煙管をオルガは長い指で摘み上げ一服吸う。 返した煙管を格子の中の人物はそのまま唇に咥え、左程美味くも無さそうに一息吸った。 感情の篭らない睛が、格子の向こうでオルガを見詰めていた。 雨が背中を伝うように、ぞくりと背筋が粟立った。 あれから幾夜、床を共にしたのか。 オルガ好みの辛口の酒を呑む。 癖のある柔らかな髪を撫でる。 帯を解き着物を肩から落とす。 白い肌に指を滑らす。 何時の間にか決まってしまった、まるで何かの儀式のような手順通りの行為。

シャニはオルガの事を何も知らないはずだ、と思う。 オルガとシャニは殆ど話もせずに肌を合わせる。 名くらいは名乗った筈だ。 シャニがオルガの名を呼んだことはあっただろうか。 絵を描いているというのは、云っただろうか。 住んでいる町も親兄弟のことも、話した事は無い。 これといって面白い話が出来る訳でもないのだが。 シャニも自分の話をすることは無い。 気紛れに、ああ今日は暑いねとか、今日から新しい女郎が入ったンだとか、ぽつりと一言二言零すだけだ。 オルガはそれに気の無い相槌を返す。 シャニはそこで言葉を止める。 オルガは酒を咽喉に流し込み、煙草を吹かし、シャニに手を伸ばす。 夜が明ければ店先までシャニが見送り、通り一遍の挨拶を交わし別れる。 また来てねエとおざなりに云われ、アア気が向いたらなと答えを返す。 金で交わす一夜の恋の幻。 それがいつまでも続かないであろうというのは分かり切っていた事。 シャニから告げられた言葉に今更驚くでもない。 例えばシャニの白く冷たい肌に手を滑らせるときに、この肌が薄暗い楼内の行燈の明かりの下でなく、眩しく暖かい日光の差すところではどんな風に輝くのかと、考えたことが無かったではない。 いつか流行り絵師になれば身請けしてやろうかと思わなかったでもない。 まだ駆け出しの貧乏絵師であるオルガにとっては夢のまた夢であったが。 シャニに身請けの話が纏まったという。 愛想の無いシャニは見世でも人気が無いらしく、いつも格子の隅に所在無さげに座っていた。 そのシャニに、自分以外にも馴染みが居たのか、それとも新しい客が見初めたのか。 廓に住む妓達は、この塀に囲まれた世界を苦界と呼ぶ。 シャニの居るような小見世の妓だけでなく、大見世の花魁であってもそれは同じだ。 豪奢な着物を幾重にも重ね髪を高く結い上げ、美しい化粧を施されてもその身は重い借金に雁字搦めにされている。 そこから連れ出してやれるなら、それが自分ではないとしても。 シャニにとってはそれがいいンだろうと、オルガは考える。 布団から裸の肩をはみ出させたシャニは何時の間にか静かな寝息を立てている。 外ではまだ雨が降っているのだろうか。

絵を、描きたかったのだ。 いつからそう思っていたのだろうか。 シャニの絵を一枚、描きたかったのだ。 美人画や本の挿絵なんかじゃなくオルガは、本当は風景画を描くことが好きだった。 山頂に万年雪を頂く富士の山や、白砂に打ち寄せる無数の波など、人の手の入らない美しい風景を描きたかった。 幼い頃に親を亡くし、長屋の大家の仲介で絵師のところに内弟子に入った。 孤児としては運の良い境遇だったと自分でも思う。 絵師の家族に沢山の兄弟弟子、大所帯の中で寝起きしていていつも周りは騒騒しかった。 元元口数が多いほうでもなく、賑やかな環境に馴染めないオルガを、家族や兄弟子はそれでも可愛がってくれた。 好むと好まざると、いつも誰かが傍に居た。 仕事を教えられ、それぞれが持つ美しい錦絵を見せてくれた。 シャニは、どうだったのだろうか。 いつも無表情に組み敷かれる、彼は。 人を描きたいと思ったのは初めてだった。 狭い部屋の中は行燈の明かりだけでひどく頼りなく、その中で自分の杯に酒を注ぐついでのようにオルガのそれにも酒を注ぎ、煙草を吸うシャニ。 美しいと思ったわけではない。 睛にオルガの姿を映しながらもシャニはどこか虚ろで、その姿をただ描いてみたい、と思ったのだ。 未熟な自分ではまだ思うような絵は描けないけれども、いつかきっとシャニの絵を描きたかった。 傍らで眠る姿を焼き付けておけば、それは叶うだろうか。 もうじき、夜明けを知らせる鳥が鳴く。





あの客が現われるのはそういえば雨の降る晩が多い、ような気がする。 白粉を塗りたくり紅を差す。 襦袢の上に重い打ち掛けを重ね、帯を締められる。 煙管と煙草盆を携え店先に並ぶ。 格子の向うは極楽、こちらは地獄。

そうは云ったものの、シャニにとっては向うもこちらもさして代わりはない。 夜露をしのげる屋根があり、継ぎのあたらない着物を着ることができ、何より食うものに困らない。 シャニの母は、シャニを産んですぐに死んだらしい。 家族はシャニと父の二人だけ。 刀鍛冶だった父が仕事をしていた姿を、シャニは見たことが無い。 父はいつも酒を呑みシャニを殴った。 口答えをすると真冬でも外に放り出され、一晩中玄関の前で震えていたこともあった。 幼いときには、それでも父に構って欲しくて泣いた。 泣いてもそれが叶えられないと悟ったときに、泣くのをやめた。 ある日、見知らぬ男がやって来て、シャニの手を引いた。 父はその日も酒を呑んでいて、シャニのほうを見ようともしなかった。 建付けの悪い戸を、見知らぬ男は忌忌しそうに乱暴に開けた。 開いた戸から差し込んだ外の明かりが妙に眩しかった。 シャニが六つになった年の初夏だった。 女郎の世話や下働きをしながら、閨の作法を教え込まれた。 初めて客を取ったのは十二のとき。 相手の顔なんて覚えていないし、どんな風に抱かれたのかも分からない。 ただ、気持ちが悪かったことだけをはっきり覚えている。 皮膚の上を這いまわる他人の手の感触だとか、耳元に感じる荒い息遣いだとか、髪から漂う鬢付け油の匂いだとか、そんなもの全てが気持ち悪く、布団の上に嘔吐した。 客は怒り狂ってシャ二を殴りつけ、女将には仕置きとして両手を戒めら暗い物置に一昼夜閉じ込められた。 鼠の走り回る音を聞きながら、悪寒を胎の中に押し留めた。 男に抱かれることにはすぐに慣れ、じきに何も感じなくなった。 俯いて格子の中に座り客に買われ、つまらない話に適当に相槌を打ち、身体を好きにさせる。 ただそれだけの日日。 外に出たいとも思わなかった。 格子の外で過ごした六年間はシャニにとって、何一つ幸福な思い出を残さなかった。 だから外の世界の自由を恋しいと思う気持ちも無かった。 格子の中で飯を食い化粧を施し男に抱かれる。 無益な毎日をただ過ごす。 何も作らず、何も残さない。 きつい仕事で身体を病み死んでいく女郎達を見ながら、いつか自分もそうやって命を終わらせていくのだろうと漠然と思っていた。 あの晩、吉原は雨の底に沈んだように水にぼやけ、堤燈の明かりも潤んでいた。 通りを行き過ぎる人の顔は傘の下で見えない。 ふと、影が落ちた。 店先の堤燈と格子の間に、人が立ったのだ。 睛だけを動かす。 通りの向こうの見世に掛けられた堤燈の明かりを背に、傘の下、秀麗な横顔が見えた。 男は細長い指を懐に入れた。 煙草入れを探しているのだろう。 無意識に、格子の隙間から煙管を差し出していた。 打ち掛けの膝の前に置かれた煙草盆は、通りを行く客に振舞う為のものだ。 見目や身なりの良い客には、行く先先で煙管が差し出される。 他の女郎が目ぼしい客に我先にと煙管を差し出すのを尻目に、シャニはいつも自分が吸うばかりで客にその煙管を吸わせることは無かったが。 男の、温度の低そうな睛が、シャニの姿を捉えるのを視界の端で見ていた。 男は煙草を一服吸うとすぐに煙管をシャニに返した。 腕の動きに従って揺れた袖から、雨の匂いが強く香った。 それに混じった嗅ぎ慣れない匂いが、絵を描く塗料だと知ったのは何度目に身体を重ねたときだったのだろう。 オルガという名だという。 オルガ、と声に出して繰り返したシャニに、オルガはすこしだけ笑ったように見えた。 情交の最中だった。 今夜は雨が降っている。 あの客は、現われるだろうか。

部屋の隅の行燈が、オルガの横顔を照らす。 いつも綺麗に撫で付けられているオルガの髪が、シャニの上でわずかに乱れる。 その様が好きだった。 項にかかる後れ毛を、指先でそっと撫でると、オルガは鬱陶しそうに眉を寄せ、シャニの肌を辿る手に力を込めた。
「何、考えてる」
オルガが静かに問う。 しなやかな指はシャニの顎に触れ、顔をオルガの方へと向けさせる。
「別に、アンタのこと」
「嘘を」
短くオルガは云って、シャニの唇を塞ぐ。 オルガの薄い唇の表面は冷たい。 その中が、酷く熱いことをシャニはとうに知っている。 シャニの身請けが決まった。 格子の中でただぼんやり座っているだけのシャニの、一体何を気に入ったのか初見のその客は、その場でさっさと話を纏めてしまった。 シャニはその客の顔も知らない。 よかったねエシャニ、あんたの身請けが決まったヨオ、アタシも心配してたんだヨ、なんて白白しい女将の耳障りな甲高い声を聞き流しながら、オルガのことが脳裏を過ぎった。 オルガが見世に来たのはその晩。 身請けの決まったシャニは本来なら見世には出ない。 女将が気を遣ったのか、それとも僅かな儲けでも無駄にしたくなかっただけなのか、何も云わずに部屋へ上げた。 店先にシャニの姿が無かったことをオルガはどう思ったのだろう。 それを問うことは、したくなかった。 せめて行為が終わるまでは、いつもの晩でいたかった。 癖のような、行為の始めの手順。 髪を撫でられるその手が、いつも優しい。 壊れ物を扱うようにそっと髪に触れる長い指。 オルガはこの指で一体どんな絵を描くのだろう。 シャニを身請けするのは、錦絵の版元の旦那様だという。 そこでオルガの描く絵を、もしかしたら見ることは出来ないだろうか。 名前と、絵師だということしか知らないこの男。 夜が明ければオルガとはもう会うこともないのだろう。 外ではまだ雨が降っている。 鼻先を擽るオルガの髪からは、雨の匂いがする。 初めてオルガに抱かれたあの晩と同じだ。 オルガはシャニに何も聞かない。 関心が無いのだろうと思う。 彼が何故自分のところに通ってくるのかよく分からない。 仮に聞いたところで、単なる気紛れだとでも片付けられるのだろう。 オルガは黒の小袖を脱ぎ捨て、湿っぽい布団の外に放った。 行燈の赤い光の中にオルガの身体が浮かび上がる。 その背中に腕をまわす。 今夜くらいはその広い背中に爪を立て、ちいさな傷を作っても許されるだろうか。