自分と他者を比べるのは意味のないことだと知っている。 クルジス共和国に生を受け、紛争の渦中に身を置くことになったのは不幸なことではあるかもしれないが、それを恨んだり呪ったりしたところでそれはまったくどうにもならないことで、つまり仕方のないことで、それだけのこと、だ。 クルジスの大地は乾いていて、昼夜の寒暖の差が激しかった。 星を明るく感じるほどその夜は暗く、俺達はいつも自動小銃を脇に抱え、背中を丸め獣のように眠っていた。 だからというわけじゃない。 と俺は思う。 備え付けのクローゼットの中で膝を抱え背中を丸め小さくなって寝転がる。 埃の匂い。 扉の隙間から細く光が漏れる。 照明の点いていない室内はそれでも薄明るく、床にごく近い場所から見るその線のように細い世界は扉一枚しか隔てていないのにひどく遠く感じる。 地上での潜伏用に俺に与えられた東京のこの集合住宅の中の一室は、白くて清潔で暖かくて何もない。 食料、情報を得るためと通信のための端末、簡単な救急用品、石鹸などの日用品、そんな程度。 クローゼットの中も空っぽだ。 持っている衣類はごく少ない。 身に着けているものと洗濯しているものと、それだけぐらいしか必要じゃない。 空っぽの部屋の中の空っぽのクローゼットの中でじっとしている。 何をするでもない。 俺はクローゼットの中で蹲っている。 クローゼットの内側はつるつるした化粧ベニヤで覆われていて、その向こうは壁で、そのさらに向こうは多分隣室のクローゼットだ。 プライバシーに配慮された集合住宅の壁はそんなに薄くもないはずなのに、それでも俺の耳は時々そのクローゼット越しに隣室の生活を捉える。 きい、と僅かに軋むクローゼットの扉が開かれる音。 あら、沙慈、私のブルーのブラウス知らない? こないだ刺身の醤油零してクリーニングに出したじゃない。 ああそうだったわね、もう出来上がってるかしら。 今日帰りに寄ってきてあげようか。 ほんと?悪いわね、いい弟を持って幸せだわ。 こんなときばっかり調子いいんだから。 きい、と軋むクローゼットの扉の閉められる音。 経済特区東京における生活の音。 隣人は22歳の女性、職業はジャーナリストと、17歳の男性、職業は高校生の姉弟。 隣家に出入りする人間は他に5人程で、特に頻度の高いのは弟のガールフレンドである17歳女性。 遊びに来ることはあっても泊まっていくことはないようで、彼女がやって来ると帰りは必ず弟が送っていく。 姉の帰宅時間はいつもまちまちだが、深夜になることが多いようだ。 弟は食事の支度を姉の分まで済ませ、テレビをつけて時々相槌を打ちながら夕食を摂る。 夜遅く帰ってきた姉はあまり物音を立てないから、何をしているのかクローゼットの中の俺は知ることがない。 昼間買い物に行き缶詰やレトルトパックや果物とミネラルウォーターを買い込み、毎日欠かさないトレーニングをこなしてしまって、俺はクローゼットに篭った。 両開きの扉が開いた備え付けのそのクローゼットは、扉をきっちりと閉めても細い隙間があって、クローゼットの中に一筋の光を送る。 俺はその中に蹲っている。 俺の居るクローゼットの中と、扉一枚隔てた薄暗い室内は別世界のように見える。 背にした壁の向こう、隣室のクローゼット(それには俺のクローゼットとは違ってきっと衣類がたくさん入っている)越しに聞こえるその部屋には、今は住人である姉弟が揃っている。 時刻は夕暮れ。 扉越しの世界も、すこしづつ薄暗くなってくる時間帯。 隣室では仲の良い姉弟(といっても一般的な姉弟の仲の良さというのがどんなものなのか俺はよくわからない)が一緒に作った夕食をこれから食べようかというところらしい。 姉さん、それにしたってカレーと肉じゃがとシチューって組み合わせはどうかと思うんだけど。 明日からの出張ちょっと長くなるかもしれないのよ、冷凍しておけばいいでしょう。 僕はいるんだから自分の分くらい何でも作るのに。 そうは言うけど放っておいたらレトルトばっかり食べてるでしょう。 そんなことないって。 あるわよ。 信用ないんだから。 そんなこともないけど、あ、そうだこれお隣さんにも持ってってあげなさいよ、お隣さん男の子一人なんでしょう。 うん、そのつもり。 あ、そういえばこないだも筑前煮持ってったのね、どうだったの。 うんまあ、食べてはくれたみたい。 そう。 タッパーもう仕舞っちゃったっけ。 そこにあるわよ、どれ持ってくの。 えーと、とりあえず肉じゃがとカレー。 そう。 あ、零しちゃった、ぞうきんぞうきん。 やだ、ちゃんと拭いといてね。 うん、よし、綺麗になった、じゃあ先にこれお隣さんにあげてくるね。 なんならお隣さんもごはんに誘ったら? うん、誘うのはいいけど、どうだろうな、じゃ、ちょっと行ってくるね。 ばたん、と隣家のドアが開いてすぐに閉まる音が続いた。 間をおかずに俺の家のインターフォンが鳴る。 リン、という電子音。 二度、三度。 俺はクローゼットから出ない。 クローゼットの外は、知らない世界。 俺の。 インターフォンは鳴り止んだ。 ばたん、とまた隣のドアの音。 お隣さん留守みたい。 そう、また明日声かけてみたら。 うん、そうする。 それは俺の居るクローゼットからは、ひどく遠い場所で交わされる会話だ。


クローゼットには魔物が棲む