日当たりの悪いいつものワンルームで目を覚ますとなんだか違和感を感じた。 どことなく湿った感触のするベッドに潜り込んだのは確かもう明け方だったとまだはっきりしない頭で考える。 半分も開かない瞼の向こうに広がる見飽きた自室の景色は、テーブルの上に積まれた週刊誌と吸殻の山ができた灰皿から、フローリングに脱ぎ散らかしたジーンズにスカジャン、それからシンクに置かれたカップラーメンの空き容器までいつもどおりで、違うところといえばここ最近では記憶がないくらいに明るく眩しかったってことだ。 気付いてから考える。 眩しいってなんでだ? 頬を枕にくっつけたまま、覚醒しきらない頭で思考をまとめようとしていたら、ふと枕と反対の頬に異常な温度が押し付けられた。
「あつッ!」
咄嗟に飛び起きたら頭が何かにぶつかって、頬に今度は熱い液体が流れてきた。
「あつ!あつ!」
叫んで手の甲で拭う。 手の甲も熱い。 頬がひりひり痛む。 ははは何やってるんだ、と笑う声が聞こえる。 何やってるはてめえのほうだグラハム死ね!と罵ったら、私が死んだら誰が君みたいなろくでなしの甲斐性なしを気にかけてやるって言うんだと奴は俺のベッドに腰掛けたまま真顔で抜かした。
「見ろパトリック、コーヒーで袖が濡れてしまった、コーヒーの染みは落ちにくいのに」
コーヒーが入ったままのカップが鼻先に突きつけられる。 中身はもうほとんど残っていない。 どれだけ入っていたのかは知らないが、そのうちのだいぶ多くが俺の頬に零されたことだけは確かだ。 何しろワイシャツの袖は確かに茶色く染まっているが、その面積はごく狭い。 つうか俺のせいかよ! グラハムはコーヒーカップを持っている手とは反対の手に持っていた新聞を無造作に床に置くと、その手を伸ばしてくる。 何をするのかと思って見ていると、伸ばされた白い手は俺の頬に近付く。 一瞬怯んだ俺に構わずグラハムの親指らしき指先は俺の頬をぐいと強く擦った。
「なんだよ」
同じ場所を強く擦られる。 二度、三度。
「おい、なんだよッ」
手を払い除けようとしたがグラハムはまあ待て、と真剣な顔をして俺の頬を擦っているので、しばらく我慢して好きにさせてやることにする。 抵抗しようとしたところでこいつは殊勝に手を引っ込めるような男じゃないし、逆らおうとすれば恐らくさっきのコーヒーを零した責任などを持ち出してくるのだろう。 そうなるともう面倒だ。 皮膚が引き攣れるぐらいその指先には力が込められている。 なんだってんだよ、言おうとしたところで指が離れた。 触れていた小さな体温が頬の上から消える。
「よし、」
もういい、と指と一緒にいつの間にか近くにあったグラハムの顔も離れた。 金の睫毛に縁取られた瞳やその下の白い頬などをほとんど無意識に眺めていた俺も慌てて視線を外す。 野郎の顔に見惚れてたなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。 もっともこいつくらい顔がよければ男に迫られることだってあるかもしれないが、俺には勿論そっちの気はない。 癖のある金の髪や黒目がちの大きな瞳や勝気な表情やはきはきした物言いは好みではあるが、それは当然柔らかくて小さな身体を持った女の子に限られる。 ベッドに腰掛けてほとんど空のコーヒーカップを週刊誌の山の上に置き、ポケットから出したきっちりアイロンのかかったバーバリーのハンカチで指を拭っている人物は残念ながらしっかり男だ。 小柄だが無駄の無い筋肉に覆われた硬い身体の持ち主だ。 こいつが女だったらよかったのに、と思ったことが無いわけではないがそんなことを言ってみても始まらない。 腐れ縁はお互いおむつをしていた頃から続いているのだから大概だ。
「おい、なんだったつうんだよ」
指を拭ったハンカチをポケットに仕舞い込んだグラハムは、血だ、と答える。 ああ、血。
「お前のものかと思ったのだが、違ったようだな」
「アホか、俺が血ィ流すようなヘマすっかよ」
こっちを真っ直ぐ見ていたグラハムの視線から逃れるように、俺は半分起こしたままの身体をベッドから乗り出し、テーブルの上に置きっぱなされていたボルヴィックを手に取る。 青いキャップを捻ってぬるい水を喉に流し込む。 滑り落ちていく水の感触の心地よさに、今更喉の渇きを覚え、ペットボトルに半分近く残っていたそれを一気に飲み干した。
「ならいいがな」
グラハムは週刊誌の山の上からコーヒーカップを取ろうとして、零してしまったせいで中身が入っていないことに気付いてまた戻し、そのかわりさっき床に置いた新聞の下から何かを取り出して俺の前で振った。 見覚えのある黒いもの。 黒い金属。 樹脂で出来たグリップに彫られた星。 赤星と俗称で呼ばれることもあるそれは、マカロフだ。 おもちゃみたいなちいさなそれは、拳銃以外の何物でもない。 口径は9mm、貫通力はトカレフに劣るが、人体を貫通せず弾丸が体内に残る可能性が高いということは、致死率が高いということだ。 極めて優秀で有効な人殺しの道具だ。
「これは?」
グラハムのさほど大きくは無いが、指の長さが美しく見える手の上で、そのちいさな拳銃はやっぱりおもちゃみたいに見える。
「知るかよ、見りゃわかンだろうが、」
ほう、とグラハムは眉をわざとらしく動かして言った。 新聞に載っているぞ、とグラハムは付け加えた。 俺は新聞なんか取っていないから、それは当然グラハムが持ち込んだものだ。 視線を床に走らせるが、折られて放り置かれた新聞の天井を向いた面は一面で、そこには元政治家と大企業の癒着問題についてでかでかと書かれている。 求めている情報がないことを短い時間に判断して、グラハムが左手の上で銃を転がしながらも俺の行動を観察していたことに気付いて、こっち見てんじゃねえよボケ、と顔を押しやる。
「んなモン触ってんじゃねえよ、」
危ねえぞ、と言いそうになって慌てて口を噤む。 マカロフの装弾数は8発だが、弾倉は空だ。 危ないことなんかなにもない。 少なくとも今は。 パトリック、とグラハムは言って左手の中のそれをまた床に置いた。 フローリングと金属が触れ合う硬い音が小さく鳴った。
「お前は馬鹿だな」
「うっせえんだよ」
グラハムは多分俺を見ているが、俺はボルヴィックを右手に持ったまま壁を見つめている。 パトリック、とグラハムが俺を呼ぶ。 んだよ、と返事をする。
「お前がコーヒーを零した私のワイシャツはクリーニングに出すのだが、お前もクリーニングが必要なものがあれば一緒に持っていってやろう」
「必要ねえよアホか」
頬に飛んでいた血は確かに俺のものじゃなかった。 昨日殺した他所の組の鉄砲玉のものだ。 若頭に付き添い食事をしていた縄張り内の中華料理屋から事務所へ戻るために車に乗り込もうとしたところだった。 馬鹿な鉄砲玉の放った銃弾はこっちの下っ端の腕の肉をすこしばかり抉っただけで、その代償にそいつは蜂の巣になって命をなくした。 半日前の出来事だ。 その出来事が多分今朝の新聞に活字として載せられているのだろう。
「さあパトリック、服を着ろ、モーニングでも食べに行こう」
グラハムが立ち上がりコーヒーカップを持って6歩でシンクに辿り着き、すこしは片付けたらどうなのだ、と言いながらカップラーメンの容器の中に残っていたスープをシンクに流し、スチロールの空き容器は冷蔵庫の前に口を開けて置かれた指定のゴミ袋に捨てた。 俺はそこでようやくなんとなく湿っている気がするけれど居心地のいいベッドから起き上がって、置かれたマカロフを跨ぎ、明け方脱ぎ捨てた同じジーンズを再び身に着け、スカジャンを羽織る。 普段は薄暗いはずの俺の部屋がやけに明るいのはグラハムが来てカーテンを開け放ったせいだ。 多分外はとてもよく晴れている。


明日は来ないかも知れない