俺の母親は息子の俺から見ても華やかな美人で、いつも自信に溢れて気が強かった。 俺には優しかったけれど、父親にはいささか冷淡だったように思う。 派手で社交的な母親に比べ、父親はおとなしく物静かで何を考えているのかわからないような人物だった。 一度だけ母親が父親を殴っていたのを見たことがある。 俺はまだ小さくて時間は真夜中で俺は自分の部屋でいつも手放さなかったテディベアと一緒に眠っていたはずだったのだけれど、階下から聞こえる物音にテディベアを抱きしめ暖かな寝台を抜け出したのだ。 ママ? 暗い廊下を抜けると階段の下の居間からは煌々と明かりが漏れていた。 明かりと、言い争う声とが。 ママ? 俺は恐る恐る居間を覗き込む。 艶やかなボルドーのドレススーツを着て、美しい金の髪を大袈裟に巻いた母親が、ビーズだかスパンコールだかできらきら煌くパーティーバッグを振りかざし、それを父親めがけて振り下ろそうとしているまさにその瞬間だった。 銀色に光るそれは父親の頭に命中する。 咄嗟に頭をかばったのであろう腕の間をすり抜けてだ。 こちらに背を向けていた父親の表情は見えなかったけれど、母親の表情はよく見えた。 長いまつげに縁取られた瞳は残酷に輝き、真っ赤な唇は美しく弧を描いて、つまりは笑っていたのだ。 俺は無意識に息を止め、足音を立てぬようにそっと部屋に戻った。 大切なテディベアを抱きしめて。 その夜はそれからなかなか寝付けなかった。 母親の姿が忘れられなかった。 翌朝、居間で静かに新聞を読む父親の額には絆創膏が貼られていたけれど、俺はそれについて何も訊かなかったし、父親も何も言わなかった。 シリアルとホットミルクという簡単な朝食を出す母親も、いつも通り朝からきっちり化粧をして綺麗だった。 あの夜の母親の姿は今でも忘れられないが、だからといって今思い出すことでもないのだ。 それでも連想してしまうのは、俺に馬乗りになる男の輝く金の髪(よくできたことにそれはゆるい巻き毛だった)と、その残酷そうに光る瞳と弧を描く形のいい唇のせいだ。 おや、とそいつは勝者の顔で言った。 己の価値観が覆されることなど考えたこともないという、自信に満ちた顔。 抵抗するのはもう止めたのかな? にこりと無邪気にも見える笑いを浮かべたそいつの髪がわずかに乱れているのは、俺が引っつかんだからだ。 鼻から血が一筋流れているのは俺が殴ったからだ。 顔のいい奴は得だ。 鼻血流しててもあんまり間抜けに見えない。 そいつの右手は俺の首をきつく押さえ、左手は髪を強く引っ張っている。 体重をかけられた下半身は自由にならずに、両腕は俺の首を圧迫するスーツを着た腕に添えられている。 引き離そうと思っていたはずなのに、呼吸がままならないせいで腕にも力が入らない。 縋るように掴んだ軍服の生地は滑らかで、皴にしてしまってはいけないのではないかとこんな状況なのに思ったりした。 さて、と俺に馬乗りになって俺の首を絞めている男は言う。 さて、AEUのエース君、先に乱暴を働いたのは君のほうなのだから、私の行為は正当防衛に当たるだろうね、最も軍規により私闘は禁止されているから、私も君も何らかの処分を受けることにはなるだろう、合同演習の真っ最中に、両軍のエース同士が揉めたなど外聞の良い話でもないしここは秘密を共有するのが最善だと私は考えるのだが、私に血を流させたことは水に流そう、ああ、つまらない洒落になってしまったな、とにかく私達は共犯者なのだ、そうだろう、パトリック・コーラサワー。 淀みの無い口調で男は喋る。 耳障りのよい柔らかな声は、夜景の美しいバーでカクテルでも傾けながら女の耳元ででも囁くのに似合うだろう。 残念ながらここは演習場の宿舎の外れの人通りの無い廊下で、俺は軍服を着た男だ。 右手に込めた力はそのままに左手は俺の髪から放し、軍服の上から脇腹をぐっと強く押されて鈍い痛みが走る。 そこはさっき目の前の男に拳を叩きつけられた場所だ。 多分痣になっているだろう。 目の前の男は成人男子としては幾分小柄な部類に入るだろうが、鍛錬を欠かしていないのであろうその肉体の動きには無駄がなく、正確に人体の急所を狙った攻撃は的確で威力があった。 俺の固く握り締めた右拳も奴の秀麗な顔に当たりはしたのだが、鼻血を垂らしながら一瞬の隙を突いて俺を床に引き倒した奴のほうがどう考えたって今の場合優位だ。 絞められた首にはもしかしたら奴の手の痕が残ってしまっているかもしれない。 酸素が不足した頭には靄がかかり、視界には星が瞬く。 まさか殺すつもりもないだろうに、力を込める男の腕は緩まない。 金の髪に覆われた顔が見える。 華やかで整った顔立ちに、明らかな喜びの色が見える。 喜びだって! 嗜虐の喜びだって! なんてふざけたことだ! 俺に馬乗りになる男の顔を見上げる。 重ねて見ているわけじゃないと、俺は言い切れない。 天井の照明を受けて光る黄金の髪も、華やかな美貌も、そして何よりその攻撃による至福を称えた微笑みも、どうしたって連想してしまう。 あの晩父親を殴りつけてはうっとりと赤い唇の端に笑いを乗せ、切れた額を押さえた父親に覆いかぶさるようにソファの陰へと消えた美しい母親の姿を。 罪を共有しよう、AEUのエース。 低い声で囁き近づく目の前の男の美しい顔を俺は黙って見つめている。


それは恋っていわない