白い陶製の便器を抱き込むようにして喉を鳴らすが、げえ、と音がしたきりで出てくるのはもう透明な唾液だけだ。 糸を引いて便器の斜面に落ちていくのを見届けて、拳で唇を拭ったら、ぴりりと痛みが走った。 手の甲に薄く朱が走った。 今が戦時だったら。 そうしたら殺してやれたのに。 握った拳に無意識に力がこもる。 胃で何かが動きそれが喉を逆流してくるような感覚がしたけれど、口から出たのはやっぱりげえっという音だけだった。 不愉快だ、とパトリックが考えていると不意に背後でドアノブの回される音がした。 そっちに顔を向けるのも嫌だ。 便器に顔を埋めている自分の姿を見てこいつが何を思うかなんて考えたくもない。 大丈夫かい、と柔らかな声がする。 うっせえ死ね。 言ってから思い直した。 違う、俺が殺してやる、俺が。 無遠慮に個室に入り込んできたそいつがすっと腰を屈めた気配が後ろでして、シャツ一枚の背中に手が添えられたが、それを振り払う。 途端にまた吐き気が襲ってきて、便器に顔を近づける。 げえ。 口からはもう何も出ない。 AEUのエースパイロットも随分と繊細なんだな、と言ったそいつの言葉には嫌味やからかうような調子はなく、本当にただそう思っただけなのだろう。 気分が悪い。 もう一度口を拭い、ふらりと立ち上がる。 狭い個室の入り口を塞ぐように、そいつが立っている。 背後から受ける照明に、すこし癖のある金髪が光っている。 仕立てのいいスーツを纏ったその体を押しのけ外に出る。 裸足の足の裏が床に触れた瞬間、体がすこしふらついたが、伸びてきた腕に肩をつかまれて支えられた。
「しっかりしたまえよ」
今度は僅かに笑いを含んだ口調で言われて、かっと頭に血が上るのを感じた。
「てめェ誰の所為だとッ」
「私かな」
体を支えられたまま今度こそしっかりと微笑まれて拳を振り上げかけたが、開かれていたトイレのドアに強かに肘をぶつけ、骨に走った衝撃に顔をしかめていると今度は声を立てて笑われた。 吐き気がする、吐き気が。 無理に堪えて目の前に立つ男を睨み付ける。 背丈はさほど大きくないが、堂々とした態度が男を実際の体躯よりも大きく見せる。 輝くような金髪に緑の瞳。 顔立ちは幼いが資料によると歳はパトリックとひとつしか変わらないらしい。 こいつがユニオンの、MSWADのエースだという。 こんな奴が。 口調や装いに育ちの良さを感じる。 身のこなしは軍人らしく隙がないが、無邪気な表情がどこか子供じみている。 こんな奴がユニオンのエースなのだ。 フラッグの操縦桿を握り、天を駆けるのだ。 君がいけないのだ、とそいつは言った。 突っかかってきたのは君のほうだ、私だって暴力は好みではないのだ、そう付け加えてダークカラーのスーツに包まれた腕を伸ばす。 近づいてきたその手を避けずにいたら、それは口角に触れられた。 薄く血の滲んでいたその場所を、伸ばされた白い指はそっと慈しむような仕草で撫でられる。 視界に入るその手を上に辿り、肩を通り越してその上に乗る顔をぼんやりと見ていたら、形のいい唇が動いた。
「慣れているのだと思ったのだが」
慣れているだと? 殴られることがか? それとも男に突っ込まれることがか? そうでなければ両方だとでもいうのか。 ふざけんな。 慣れているかなんて。 慣れているに決まってるじゃねえか。 唇に添えられた手を払いのけると、緑の瞳は最初すこしだけ驚いたように見開かれて、それから薄く笑みの形を作った。
「乱暴なのは感心しないが、お転婆は嫌いじゃない」
そいつは笑顔のままでドアにかけられていたパトリックの左手を取った。 整った顔立ちは教会で見る宗教画にも似ている。 握られた手を離そうと力を込めたが、思いのほか強く拘束されたそれは外せない。 自分のものではない体温に、左手は包まれている。 さっき自分を殴り、その体を好きにもてあそんだその手に包まれているのだ。
「てめえ離せよッ」
「すぐに終わる」
言ってすぐにそいつは左手を持ち上げると、自分の唇に近付けて、接吻を落とした。 さっきまで便器にしがみついていた、パトリックの手にだ。 馬鹿かこいつ!何考えてんだ! 力の入らない足を無理に持ち上げて目の前の男の腹を蹴り上げようとすると、それを察した相手はさっと手を解放し、一歩離れた。 パトリックの足はただ何もない空をさまよっただけだった。
「また会うこともあるだろう、AEUのエース」
言い残してそいつはトイレから出て行った。 パトリックはまた個室に入り、便器に屈みこむ。 げえ、と音はするが口からは何も出ない。 戦時だったら、とパトリックは考える。 戦時であればあんな奴は殺してしまえる。 自分がモビルスーツにさえ乗っていれば。 フラッグと対峙したところで絶対に自分が勝ってみせる。 あんな奴がユニオンのエースだなんて。 殺してやる。 絶対に殺してやる。 吐き気がする。 喉は鳴るが口からは何も出ない。


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