道行く人の顔はどこか忙しげで、足元は灰色の石畳。 先を歩く刹那とティエリアの姿は雑踏に紛れて見えない。 と、不穏な言葉が聞こえた気がしてロックオンは振り返る。 半歩後ろを歩くアレルヤは明後日の方向を向いていて、前から来たスーツ姿の中年男性とぶつかりそうになったのをロックオンが軽く腕を引いてどうにか避けた。 アレルヤはそこで初めてロックオンに気付いたと言わんばかりに視線を向け、ああ、と言った。
「縁起でもねえこと言ってんなよな」
言うとアレルヤは何を言われたのかわからない、という顔をして見せてから、もう一度ああ、と言った。
「口に出していましたか、」
おう、と肯定してやると、すみません、とアレルヤは謝罪の言葉を口にした。 咎めてるわけじゃねえンだぜ、ロックオンが言うと再びアレルヤは同じ言葉を口にする。 すみません、とわずかに俯いて。
「だから、そんな顔すんなって」
余計暗く見えンぞ、とうっかり言いそうになって慌てて口を噤む。 他者との関係を築くことの得意でない彼を、無用に追い詰めるような言葉は使うべきではない。 優しい子ではあるのだ、たぶん、間違いなく。 ただすこし不器用なだけで。 わずかに伏せられた視線はまだどこか虚ろで、進められる歩みはどこかぎこちない。 歩調を合わせて進むロックオンを、無数の人間がすこし邪魔そうに通り過ぎていく。
「それで、誰が死ぬってんだ?」
わざと軽い口調で訊いてみる。 さっき、ロックオンにはこう聞こえたのだ。 死ぬね、と。 それはほんとうにかすかな音量で、吐息と同じように静かに唇から吐き出されたのだが、その単語の不穏さにしっかりとロックオンの耳に捕らえられたのだ。 死ぬね、と。 ロックオンの立つ場所は戦場だ。 そこは限りなく死に近い場所だ。 一瞬の隙、一瞬の間、生者が死者になる。 瞬きひとつの時間の中で。 死は近くにある。 時に、麻痺してしまいそうになるくらいに。 だからこそ聞き逃してしまいそうな声の中に、あまりに身近で、それでいて近く感じたくないその言葉をしっかりと拾ってしまったのだ。 あまりにも側から発せられたその音を。 空は青くて世界は日光に満ちていて人々は忙しそうだけれどもときに笑いながら歩くこの平和な街で、それは唐突で不釣合いだった。 わからない、とアレルヤは答えた。 わからないけど、そんな気がするんです、そう言ってアレルヤはわずかに首を捻り、後ろを振り向く仕草をしてみせた。 さっき擦れ違ったスーツ姿の、30代くらいの東洋系の男性です、背丈は大きくなかったけど、体つきはしっかりしていたし、歩みにも隙がなかったからきっと軍人だと思うんだけど、その人が。 その人が何か死ぬような気がして。 ただそれだけなんです。 声に出しているつもりもなかった。 驚かせてすみません。 たぶん、気のせいだから。 そうか、と言ってロックオンは黙った。 アレルヤも黙った。 雑踏の発する音が聞こえる。 無数の声とか車のタイヤが擦れる音とかビルの上の巨大モニターから垂れ流される女性歌手の甘ったるい歌声とか。 世界は生きている。 気のせいだとアレルヤは言ったのだし、たしかに気のせいであるのだろう。 人の死期が見える人間がいるとはいうが、ロックオンは信じていない。 病で弱った者ならまだしも、不意の事故や事件で落ちる命までが、どうして見えるというのだ。 不可思議なことを否定するわけではないが、ただ理屈に合わないとロックオンは思うのだ。 命が目に見えるなんて、そんな馬鹿なこと。 それでももしそんなことが本当にあるとすれば、それはきっととても不幸なことなのだ。 アレルヤがもしもそうだったら、と考える。 鋼とカーボンの肉体を駆り、銃を握り、硝煙と返り血の中で生きることを決めてしまった彼にもしも命の灯火が見えてしまったら。 自分がその手にかける魂の輝きを見てしまったら。 それはなんて恐ろしいことなのだろうか。 自分たちは人殺しだ。 例えどんな大義があろうと、小難しい理屈を並べようと、耳障りのいい奇麗事を並べようと、突き詰めてしまえばそれしかないのだ。 己自身の、出来れば目を背けていたい、その血に濡れた手を突然目の前に突きつけられてしまうことは、苦しい。 罪を抱えていく覚悟は、出来ているつもりではあるけれど。 怖いのだ。 殺すことも、そして殺されることも。 自分も、誰かも、誰も、死なずにすめばいいと、そう思ったところでどうしようもないのだ。 賽は投げられてしまった。 そして、それは間違いなく自分の意思でもあったのだ。 平和のため、だなんて言葉にしてしまえばあまりにも軽すぎるけれど。 気付けばロックオンは腕を伸ばそうとしていて、そのアレルヤに向かってわずかに開かれた手のひらが何をしようとしていたのかを考えて、その行動がどう作用するのかを考えてみてから手を引っ込めて、早く行こうぜ、と笑顔を作った。 ついさっきまでは人ごみの隙間からときどき見えていた刹那とティエリアの姿が、もう見えなくなってしまっていた。 あいつら二人っきりで先行かせちゃあ心配でなんねえよ。 そうだね、と応えたアレルヤの目はもうとっくに確りしている。 こう思うことはたぶん間違っているが、それでも思わずにはいられない。 なんて可哀想な子だ。


可哀想な子