竜導往壓が死んだのは過ぎたはずの夏が突然戻ってきたような蒸し暑い日だった。
見知らぬ女に刺されたのだった。
人違いだったのだという。
だから普段からもうすこしましな身なりをしろと言っていたのだと小笠原放三郎が怒ったように言って、江戸元閥が全くですねエと口元だけで笑った。
他には誰も笑わなかった。
黙っていた。
皆黙っていた。
既に冷たくなったその身体が見つかったのは、日本堤の上だったという。 白んだ空の下を、名残惜しく大門を返り返り歩く客のひとりが見つけたのだそうだ。 固くなった手は血で黒く染まった腹を押さえ、両足は茂る夏草の中に放り出され、仰向けに倒れていたその両の眼は見開かれ、色の移り変わる空を見上げて、それでもその唇だけは緩く笑みの形を作っていたのだそうだ。 泊まっていきなと言ったのサと嬉野花魁は煙管からその赤い唇を離しもしないままぽつりと呟き、馬鹿な野郎だ妖夷相手には一歩も引けを取らないくせに素人女に殺されるなんて、と河鍋狂斎が空の杯を弄びながら吐き棄てるように言った。 あれは登楼っても床入りしやァしないのサ、呑んで食って歌って寝てくだけなンだから全く気障な男だよウ、そう言っていたのは遣り手だったろうか。 それは違うとおもったが口にはしなかった。 あれは気障なのではない、ただ臆病なのだとそう知っていた。 竜導往壓が無頼漢であった頃の馴染みなのだときいたのは、それからだいぶ経ってからだった。 下手人は日本橋に間口六間の大店を構える呉服問屋の娘だった。 乳母日傘で育てられた箱入りで、花鳥風月の華やかな振袖に珊瑚のびらびら簪のあどけない、こどもといっても障りのないような年若い女だった。 言い交わした相手がいたそうだ。 浮民の男だったのだという。 どうあっても許される相手ではないことは確かだ。 だからといって心中を、そう心中を企てたのだ、その若い娘が。 現世で結ばれることが叶わぬならば来世でこそ。 相手の男がどこまで本気だったのかはわからない。 ただ娘は思いつめ、男を待ち伏せ、そして錦に包んで持ち出した出刃包丁で、やって来た相手の腹を顔も見ずに刺したのだという。 その娘ももう鬼籍に入った。 惚れた男と一緒にだ。 今度は相手を間違えなかったらしい、折り重なるように血に濡れ倒れているのが、大川の傍で見つかったそうだ。 男は既に息がなく、自ら喉を突いた娘のほうは、絶え絶えの息で駆けつけた役人に己のしでかしたことの顛末を語ったのだ。 ついた喉からは絶え間なく赤い泡が零れていたそうだ。 娘は悔いてはいなかった。 ただまちがえたのだとそう言った。 来世では夫婦になることができましょうや、言い残して娘は死んだ。 つまりはそういうことだ。 玉兵親分がやってきて、お調べだとひとつふたつ話を聞いて帰って行った。 今更調べることなどあろうはずもない。 馬鹿だ馬鹿だたァ思ってたが本当に大馬鹿野郎だぜェと十手で首の後ろを叩きながら白い光で満ちた昼間の仲の町のほうへ歩いていった。 ひとり暮らす老いた母に報せを持って行ったのは、小笠原放三郎だった。 老女は小さな身体をさらにちいさく縮こませ、それでも確りとした声でそうですかと言ったのだそうだ。 心中で死んだものは葬式も埋葬も許されない。 野晒しにされたその男女の躯を見に行った。 ぶり返した暑さにすでに腐乱しかけたそれは醜いだけの塊だった。 肌は黒ずみ眼球は解け落ち毛穴からは体液と崩れた臓腑の混じった汁が零れ蛆が集り腐臭が漂う。 女の緋襦袢がぬるい風に吹かれて揺れていた。 男は粗末な茶の単衣を着ていた。 ちっとも似てはいない、とおもった。 葬儀を取り仕切ったのは江戸元閥だった。 前島聖天で行われたそれは、この国の弔いの儀式としてはすこし変わった形のものだったようだが、そもそもこの国で行われる葬式がどんなのものなのかよく知らない。 白い衣を着た小笠原放三郎は黙って頭を垂れていた。 普段と変わらぬ姿のアビはただまっすぐにどこかを見つめ、地味な女物の装束を着た宰蔵は黙っていた。 雪輪は喋らなくなってしまった。 雪輪の中の雲七という存在を作り出したのは竜導往壓に他ならないのだから、竜導往壓が死んだ以上雲七も消えてしまうのだろう。 雪輪はもう喋らなくなってしまった。 ただ雪輪としてそこにいる。 丸い棺桶の中に竜導往壓の肉体はある。 蹲るように、膝を抱えて。 腐り始める前に埋葬してしまおう、と誰かが言ったが、既にその木製の入れ物からは、わずかに腐臭が零れ出していた。 死の匂い、というよりもそれはただ生物が生物でなくなってしまった匂い、だった。 数日前までは生きていたのに。 生きて話して動いて暖かかった身体が今は棺桶の中で腐りかけている。 ひとだったものは、もうひとではなくなってしまった。 (連れていってくれなかった) 竜導往壓が死んだ。 わたしを置いて。 竜導往壓はひとりでいってしまった。 新世界(或いは夢にも似た) |