人差指と中指の付け根の骨、の感触をくっきりと鳩尾に感じた、なんて他人事みたいに考えていた。
目の前で、見事な黄金の髪を研究棟の廊下の薄暗い照明の下で煌めかせている男の拳が自分の腹にめり込んだのだと理解したときには、眼前に埃っぽいリノリウムの床が迫っていて、反射的に目を閉じた。
瞼の裏で星が瞬いた。
がつんと鈍い音、は外からじゃなくて頭蓋骨越しに伝わった。
こみあげてきた嘔吐感を無理に飲み込むと、ぐっ、と潰れた音が喉の奥で鳴った。
頬に感じる埃っぽい床は冷たくてざらざらしていて不愉快だった。
殴られた腹と倒れて打った頭の両方が熱かった。
やだなあ俺ちょっとかっこわるいなあ。
サービスにこんなとこ見られでもしてたら何て言われるか知れたもんじゃない。
開けた目の焦点をいちばん近くに見えた汚れた床に合わせると、砂埃や髪の毛や薄い染みなんかがやけに目に付いて、清掃スタッフの数をもうちょっと増やしてもらえたらいいんですけど、と研究員達が言っていたのを思い出したりした。
視線をゆるりと動かすと、こちらを見下ろす青い瞳と視線がぶつかった。
ああ同じ色だ、と思った。
(懐かしい海の色、と似ているけれど、) 思考を向けていたその瞳の形が歪む。 コートを着た腕が伸ばされて、俺のシャツの襟元を乱暴に掴みあげた。 強い力で引っ張られて、起き上がらされる。 首元が絞まって息が苦しい。 右腕が振り上げられるのが見えた。 ガツ、と今度は左頬に衝撃。 呼吸が一瞬止まる。 痛みよりも先に熱を感じる。 ただただ頬が熱い。 襟元は掴みあげられたままだから、膝を折ることも出来ない。 続けて同じ場所に、二度、三度、四度。 息を詰める。 無意識に。 身体に力は入れない。 金色が目の前にちらつく。 長く伸ばした髪の色。 獅子の鬣のような、色。 それから白い皮膚を覆うコートの黒。 握りしめて白くなった拳の色。 五度目が終わったところで放り出されて、今度は床と熱い熱い接吻だ。 鼻から温いものが流れ出している感触がしたけれど、床と激突した瞬間のものなのか、何度目かに殴れらたときのものなのか、はっきりしない。 皮膚を伝った鼻血が、酸素を求めて無意識に薄く開いた唇から流れ込んで舌に触れた。 鉄の味。 「てめェ、何が可笑しいンだよ」 今度は髪を鷲掴み引き摺りあげて、彼が言った。 何もおかしくなんかないけど。 口に出そうとして、自分が微笑んでいることに気が付いた。 やだなあ俺殴られて笑ってるなんて。 なんだかそれってヘンタイじみてない? 何がおかしいって、そんなの。 言っちゃったら、あんたきっと泣いちゃうよ。 廊下には人通りがない。 研究棟はそもそも人の出入りの多い場所ではない。 研究室に篭ってしまうと、誰も彼もそうそう出てはこないからだ。 研究者なんてのはそもそも人間を相手にしているより、黴臭い資料や暗号より難解なプログラムや金属の塊や得体の知れない液体なんかを相手にしているほうが好きだという変人ばかりだ。 居住区にある自室よりも、資料と機械と煙草の吸殻と缶コーヒーで埋もれた研究室の方が居心地がいいと、殆ど研究室から出ずに住み着いてしまっている研究員も少なくない。 作業効率を高める為に騒音を遮断する分厚い扉が並ぶこの廊下には、ふたりっきりだ。 それは、幸か不幸か。 俺と、俺を殴っている目の前の男と、ふたりきり。 髪を掴まれたまま、体重を支えている頭皮が痛む。 星が瞬く視界には、金の髪の男が大写しになっている。 俺と彼の間の空気に、わずかに彼の体臭が混じる。 染み付いた煙草と、彼自身の肉の発する匂い。 それから血の匂い、は俺自身から。 ハーレム。 と、声に出した。 太陽の光を集めたみたいな髪に縁取られた顔は思いのほか白い。 その頬も、血の気が引いたように。 形のいい眉が顰められた。 薄い唇の口角が下がった。 喉仏が上下する。 傍若無人で乱暴な言動や、身に纏う野性的な雰囲気のせいで見過ごしがちだが、彼の所有する部品のひとつひとつは、やっぱり彼の片割れと共通している。 ハーレム。 と、もう一度声に出した。 鼻血は止まったようだが、鼻腔に残るもののせいで息が少し苦しい。 ハーレム。 そんな目で俺のこと見ないでよ。 と、これは飲み込んだ言葉だ。 視界の端で、ハーレムが拳をすこし開き、また固く握りなおすのが見えた。 白く、骨が浮き上がって見える。 ハーレムの右半身が後ろに引かれる。 視線の先に青い瞳を捉えていた。 綺麗な色の上に俺の姿が映りこんでいる。 髪を掴まれ顔を上向かされ頬を腫らし鼻から下を血に染めた俺の顔、は薄く笑っている。 ハーレム。 (ごめんな) (あんたはもうひとりの俺だ) ハーレムの拳があばら骨の下、胃の腑のあたりに衝撃を与える。 呼吸が止まる。 身体が崩れそうになるが、髪を掴んで持ち上げているハーレムの腕がそれを許さない。 喉を逆流してきた苦いものを、今度は堪えきれずに、唇の端から溢れさせた。 糸を引いたそれが、ゆっくりとリノリウムの白い床に落ちる。 音もなく、薄黄色の体液がちいさな水溜りを作る。 固形物の見えない透明な液体に、そういえば昨夜から研究室に泊り込みで、まともな食事を摂っていなかったと気付いた。 なんでこんなどうでもいいことばかりが目に付くんだろうと軽く自嘲する。 意識的に思考を逸らしているのだろうか。 認めたくないのだろうか。 何を。 (醜さを、) ハーレムの眉は不快を装うように深く寄せられているが、蒼い瞳は僅かに揺れている。 俺の愛する、その色彩。 永遠に近いほどの長くを過ごした、美しい鳥篭のようなあの島で、毎日見ていた海の色に似ていると、初めて見たときに思ったンだ。 俺が愛し、彼にとっても何より大切な、彼の双子の弟の右眼にもあったその、色。 それを奪ったのは、俺だ。 奪わせてしまったのは、俺だ。 彼の、美しかった眼球を。 俺が抉らせた。 勿論俺はそんなことがしたかったわけじゃあない。 彼に近付いたのは、そりゃあ最初は計算がなかったとは言えない。 敵対する一族の懐に入り込み、その力を削ぐために、己の素性を偽って、無邪気を装って近付いたのだ。 赤の番人として、義務であり使命であり、正義であるのだと、微塵も疑ってはいなかったのだ。 それはもしかしたら、俺の自己欺瞞だった、のかもしれないけれど。 傲慢だったのだと、今なら考えるかもしれない。 結果として俺はあのとき何ひとつ守れなかったのだし、守りたかったものを、たぶん、いちばん守りたかったものこそを、傷付けた。 どうしてそうなってしまったかなんて、わからなかった。 ただ、綺麗に見えたンだ。 あの楽園から出た俺が、薄汚れて見える世界の中で見つけた、楽園の色を。 その持ち主こそを。 サービス。 ごめんな。 お前からあれを奪うつもりなんてなかったンだ。 だってあれは、お前が持ってるから何よりも、他の何よりも綺麗だったんだ。 あの美しい蒼玉を、お前が俺のせいで捨てただなんて。 (それが、嬉しいだなんて) ハーレム。 だからあんたには、俺を殴る権利があるンだ。 あんたが自分の双子の弟を、どんだけ大事にしてたか俺は知ってる。 一族の、兄達の、軍の、そして彼を取り巻く全ての、薄暗く汚れた冷たい部分を、あの目に映さないでいられるように、あんたがずっと守ってきたんだ。 彼に決して気取られぬように汚れた部分を全部その身に引き受けて、本心とは裏腹の言葉を吐いて。 そうやってあんたがてのひらで大事に暖めてきた、あんたの宝物を。 盗み出してもう二度と戻らなくなるまで滅茶苦茶に壊してしまった俺を。 あんたは憎むンだ。 でも気付いてるか? それって親が子供の喧嘩にでしゃばるようなそういうんじゃないんだぜ。 復讐とか、制裁とか、例えばあんたはこんな言葉嫌いだろうけど、正義だとか。 あんたのそれは、たぶん嫉妬っていうんだ。 魔女が高い塔の中で大事に大事にしていたラプンツェルを、まんまと盗み出した王子様。 幼児向けの絵本の中のおはなしと違って、目玉をなくしちゃったのはラプンツェル自身だったけれど。 あんたに与えられた役は、王子様じゃなくて魔女だったんだ。 俺が王子様ってのはさすがにおこがましいと、俺だって思うけどね。 ハーレムは俺の髪を掴んでいる。 体重を支え続ける頭皮が痛む。 鼻血と吐き出した胃液で汚れた鼻から下の感触が気色悪い。 拳を受け止めた腹からは、まだ嘔吐感が込みあがって来る。 何度も殴られた頬が熱い。 俺の顔のすぐすばにある青い瞳には、汚れた俺の顔が映りこんでいる。 流れた鼻血の下の頬は、既に青黒く腫れ始めてきたようだ。 ハーレム。 と、声に出して言ったら、喉のあたりに酸っぱくて苦い胃液の残骸がひっかかって、すこし掠れてしまった。 ハーレム。 もう一度音にする。 俺の姿を映した瞳が、細められた。 拳を引くハーレムの瞳に映るきったない自分の姿を見て、明日顔を合わせるであろう研究所の職員達への言い訳を考え始める。 転んじゃったとか階段から落ちちゃったとか、そんなのさすがに信じてくれないよな。 車にはねられたとかどうだろうね? 研究棟からほとんど出ない俺がどうやって車にはねられるんだって話だけど。 そうじゃなければ、新総帥と父親のいつもの親子喧嘩に巻き込まれたってのはどうだろうか。 つらつら思考を重ねてたらさっきと正確に同じ場所に拳を叩き込まれて、俺はぐ、とかげ、とか声にならない音と同時にまた胃液を吐き散らした。 今度は俺の髪を放し、固い床に投げ捨てるように俺の身体を解放したハーレムのことを、冷たくて俺の体液ですこし濡れた床から見上げて、見下ろすその顔にやっぱり綺麗な瞳だななんて、また考えて。 (あんたのことは、嫌いじゃあないんだ) たぶんまた、すこし笑った。 ビューティフルヒューマンライフ |