毛足の長い絨毯はグラハムの磨きこまれた革靴をしっかりと包み込み、足音ひとつ零さない。
人影のないエレベーターホールには暖かな照明が点り、飾られた女神の彫像に柔らかな影を作る。
最新鋭の設備とは不釣合いなクラシカルな内装の施されたそのホテルの最上階の廊下を、グラハムは歩いている。
わずかに摂取したアルコールによって、ふわふわとした熱を身体には感じるが、酔っているというほどでもなく、足取りはしっかりしている。

ホテルまで送ろう、というアレハンドロの申し出を、か弱き婦女子でもあるまいしまがりなりにも軍人だからと固辞したのだが、強引な彼はグラハムを曇りひとつない黒塗りの車に押し込めてしまった。
革張りのシートは身体がどこまでも沈んでいきそうで、不覚にも眠りの海に落ちかけたが、そのたびに隣に座ったアレハンドロが柔らかな声音で言葉をかけてくるので、重い瞼を無理にこじ開け、回らない頭を働かせ言葉を探す。
まったく厄介な仕事がまわってきてしまったものだ。
軍人というのは軍服を着て行進をしているのが仕事だと思っていたのだが。
もっともそれも、つい先日までの話ではあるが。
あの機体。
ガンダムというモビルスーツが突如現れ、ソレスタルビーイングを名乗る組織が全紛争への軍事介入を宣言してからというもの、世界情勢は一気にきな臭くなってしまった。
もっともそれまでも争いは一秒たりとも絶えずに、大地に血と硝煙の雨を降らせ、乾くことを知らずにいたのだが。
だから本当はこんなことをしている場合ではないのだ。
ガンダム。
そうだ、あの機体を追わなくては。
カタギリはどうしているだろうか。
フラッグの開発整備は進んでいるのだろうか。
だいぶ無茶な注文をつけたが、彼ならばやってくれるだろう。
ガンダムというあの機体の性能は素晴らしかった。
機動性ではフラッグも引けをとらないつもりだが、パワーと武装で圧倒的に劣る。機動性を保持したままでどこまでの機能向上ができるだろうか。
「エーカーくん?」
「は、」
かけられた言葉にふと我に返り、声のしたほうを見やると、アレハンドロの感情の読めない顔が、思いのほか近くでグラハムを見ていた。 「何を考えていたのかな?随分と楽しそうに見えたけれど」
「いえ、何でも」
そうかい、とアレハンドロは微笑む。
明るい栗毛の髪が、車の外から入り込む煌びやかな街の灯りで照らされている。
妙な人物だ、とグラハムは考える。
今日の会食の相手に、グラハムを指定してきたのは彼だった。
彼はユニオンにとって有力な出資者だ。
その資産がどれほどのものなのか正確に走る由もないが、国ひとつを動かすほどの力があるともいう。
ユニオンにとっての最重要貴賓のひとりである彼が、何故エースとはいえ一介のパイロット、階級ではたかだか中尉である自分を名指しで指定して、数百年の歴史を持つ劇場で悲恋もののオペラを観劇し、シャンデリアの煌く自分たち以外に客のいない、どうやら彼が貸しきったらしい豪奢な内装のレストランで食前酒で始まるフルコース料理を口に運び、締めくくりは郊外の高台にあるバーにまで連れて行ったのだろうか。
それも、二人きりでだ。
すこし離れた分、この巨大な街の放つ輝きが眼下に宝石箱の中身をひっくり返したように広がるそのバーからの眺めは、確かに素晴らしいものだった。
カタギリならばこれを見て集積回路に走る電気信号のような美しさだね、とでも表現するだろう。
「まるでデートのようですね」
軽口のつもりでそう言ってみたら、アレハンドロは口角をすこしだけ上げ、私は最初からそのつもりだったよ、と言ったので、グラハムは返答に困ってしまったのだ。
光栄ですね、と言ったのだが、彼は黙ってブラッディー・メアリーの赤いグラスを揺らめかせながら、グラハムの瞳をじっと見つめていたのだ。
彼の真意はよくわからない。
もしかして、本当にそういう趣味の人物なのだろうか。
車を呼んでくだされば、とグラハムは何度も言ったのだが、アレハンドロはホテルまで送る、ときかなかったのだ。
そのホテルのスイートルームも、彼が用意したものだった。
アレハンドロとの時間は気詰まりだった。
オペラは退屈だったし、季節の食材を美しく調理した料理の数々も、味わうよりも黙々と機械的に口に運ぶ作業に没頭した、と言った方が正しい。
勧められたアルコールさえも、グラハムの精神に何の影響も及ぼさなかった。
アレハンドロは、会話の苦手な人物ではないのだろう。
話題は先ほど見たオペラのヒロインであった高級娼婦の話、料理の食材に含まれていた牡蛎の取れる海の話、まだ白黒だった時代の古い映画の話や、それからグラハムにとっての間接的な上司であるところのユニオン大統領のちょっとした失敗談など、だ。
彼は人を楽しませ、もてなすということを強く意識しているのだろう。
ユーモアを交えて穏やかな口調で語られる彼の社交慣れしたその態度は、非の打ち所のないものだろうとグラハムも思う。
その気遣いを素直に受け取れないことはグラハム自身に問題があるのだろう。
上の空だ、と言われたとしても仕方ないのだろうし、貴賓者に対して失礼な態度だと咎められても文句も言えない。
そうだ、上の空なのだ。
それもこれも。
「ガンダム」
「は?」
自分が思考をはせていたものとまったく同じ単語が隣の彼の口から発せられ、グラハムは思わずその顔を凝視する。
アレハンドロは笑っている。
「わかっているよ、ガンダムのことを考えているのだろう、まったくあれは興味をそそられるね」
グラハムが口を開こうとしたところで、車はホテルの前に到着した。
ドアマンがすかさず駆け寄り、音もなくドアを開く。
冷たい外気が流れ込んできて、すこし上昇した体温を冷やす。
「また食事につきあってくれるかい」
唇に笑みを乗せ言ったアレハンドロに、一瞬逡巡し、勿論ですコーナーさん、と返す。
それではまた、とグラハムを降ろして走り去った車の後姿をしばし眺めて、グラハムはロビーを通り抜けエレベーターに乗る。
軌道エレベーターには及ぶまでもないが、石造りを模した重厚なホテルの表面を強化ガラスの箱は無音のまま高く高く上昇し、チン、と無機質な音を立てて止まった。

歩きながら内ポケットからカードキーを取り出した。
指先に触れたそれは、グラハム自身の体温で温まっていた。
マホガニーのドアの横のカードスロットにそれを滑らすと、取っ手を握り内に押した。
途端、鼻腔を突いた異物の匂い。
決して不快なものではないが、むせかえるような濃厚な香り。
その正体はすぐにわかった。
間接照明に照らし出された部屋中を埋め尽くすような。
「薔薇?」
足元の絨毯が見えないほどの赤い薔薇。
手前のテーブルには大輪の赤い薔薇がこれでもかと生けられた花器。
正面のキングサイズのベッドにも当然薔薇が散らされているし、見えないがこの室内の状況から考えると、バスルームにも薔薇が浮いているのではないのだろうか。
こんなことをする人物は一人しか思い当たらない。
この部屋を用意した人間、すなわちつい先ほどまでともに過ごしていたアレハンドロ以外に考えられない。
「なんだというんだ」
この薔薇は。
いったい何の真似だ?
グラハムは床に撒かれた薔薇の花を最初は踏まずに避けようとしたが、すぐにあまりの量にそれは無理だと諦めて、ときに踏み潰しながらベッドまで近づき、サイドテーブルの上にも散らされた薔薇を掻き分け、通信端末を取り上げるとフロントを呼び出した。
アレハンドロ・コーナー氏に連絡を取りたい、と告げると、フロントは何かしら前もっての言い置きがあったのか、すぐに通信を繋げた。 エーカーくんかい、と機械の向こうから、建物の下で別れたばかりの相手の声が聞こえた。
「これはいったいどういうつもりですか」
努めて平静を装う。
感じた不快感には目を瞑り、困惑を表に出した声音が伝わるように。
お気に召さなかったかい、と声は言った。
そうか、赤より白のほうが好きだったかな、情熱的な君には赤が似合うと思ったのだが、確かに君のブロンドの髪と白い肌には白い薔薇のほうが映えるだろうね。
声はグラハムの感情を考慮する必要などないと言わんばかりに勝手な言葉を紡ぐ。
そういうことではありません、グラハムが伝えても相手は、わかっている、赤い薔薇が気に入らなかったのだろう、今度はもっと君に似合う花を贈らせてもらおう、などとまったく会話が噛み合わない。
それではまた、と一方的な言葉を残し、通信は向こうから切断された。
残されたのは赤い薔薇の花と濃厚な香りだけだ。
「どうしろというんだ」
甘い香りと艶やかな色彩に、目が眩む。


困ったなあと思っている